発行 サークル花火万華鏡
編集同人 川上信定 武藤輝彦
矢野誠一 猪瀬哲男
奥村 純 小野里公成
発行所 〒201 東京都狛江市
和泉本町2-34-4 武藤輝彦内
定価 年4回発行
1500円(送料共)
郵便振替 00130-9-663056
花火万華鏡第14号より一部の記事をご覧になれます。
バックナンバーを読む
●FRONT PAGE
坂の上の花火 -泡坂妻夫
●連載
花火いのち(14)商人宿と花火 -川上信定
ポカ玉 -清水武夫
花火大会よもやま話(13)
思い出の丸子多摩川大花火大会-奥村 純
●研究
線香花火を科学する(3)油煙からフラーレンへ -伊藤秀明
特別連載・玩具花火(法規上)の歩み(1)-武藤輝彦
空飛ぶ円盤(人工衛星)物語
●特集 花火競技大会審査考(2)
審査員の構成いろいろ -武藤輝彦
競技玉代作五人衆
●話題
ホームページ「日本の花火」の近辺 -小野里公成
●NEWS TOPICS
東京都の保安条例一部改正
「火薬類を取扱わない」業者出現?
展示会「夜空にロマンを」開催
●COLUMN
若い花火師の夢 -久米川和行
質問箱
万華鏡
●記録
明治5年 市中花火禁止令
●編集後記
FPONT PAGE
坂の上の花火
泡坂妻夫
夜の坂の上にいるのはカンちゃんと二人だけだった。人通りは全くない。坂が下りっいた先には、盆状の町が広がっている。家家の火は小さくまばらで、そのはるか地平線のあたりに、花火が打ち上げられていた。
その日、両国の川開きのあることは、新聞で知っていたが、期末試験で2時間あまり酷使した頭の中には、花火に記憧カ暢っていなかった。試験なので夜掌は2時間目で終る。いつもなら、このまま大人しく帰毛することはない。名画座の最終上映の間に合うのだが、あいにく月給前で私もカンちゃんも一文なしであった。二人して学校を出て、九段の中坂の上に来たとき、遠くからぽうんぽうんという昔が聞こえた。それで、川開きの日だったのを思い出した。
昭和25年の夏である。敗戦から5年目で、この年、外食券なしで米以外のそばやパンが食べられるようになったものの、私の家はまだ六畳一間だけのバラックのままだった。私は中学を卒業すると、すぐ会社勤め、夜は第二音隔校へ通学するようになった。その生活が一年あまり続いていた。その隼、新しい紙幣が発行された。日本ではじめての千円札である。
この新千円札のために、仕事がずいぷん楽になった。会社では毎日のように自乾車で銀行へ行き、現金を持ち運ぶ般をしていた。それまでの高額紙幣は百円札だったから、その十分の一の量になり、50万円ぐらいは学生服のポケットにねじ込むことができ、自転車の運転が快適になった。
といっても、会社の紙幣は金という実感がない。これは一日中紙幣を手にしている銀行員も同じようで、自分のものでなければ、印刷された紙以上のものではない。
それは、会社との付き合い方も似たようなものだった。熱心に勤めて人より早く昇級したいという気持ちはない。まして、こらからの一生を会社に託す考えなども毛頭ない。といって、掌間に励むというわけでもない。学校が楽しいのは、気の合った友達と浮世竈れしたことを喋ったり、暇を見つけては芝居や映画館にせっせと通ったりするからだった。
カンちゃんもそうした仲の良い友達の一人だった。ただし、カンちゃんは将来、演劇こ進むという、はっきりした目標を立てていた。漫然とした根なし草のような私の生き方とは違っていた。ある試験の時間、カンちゃんは十分足らずで答案用紙を提出して「これから木下順二の『夕鶴』を観に行きます」と宣言したほどの豪の者だ。その豪の者でも金には勝てない。学校が早く終わっても、そのまま帰るしかなかった。
中坂の上で花火に気付くと、私たちは、足を止め、いい合わせたようにその場にしゃがんで、花火に夢中になった。遠くの花火は、頭上で花開くといった迫力はなかった。それはほとんど線香花火のようで、限りなく優しく、野草のように可憐で美しかった。しかも、次から次へと打ち上げられる花火は、様々に形を変え、飽きることがない。花火と同時ではなく、やや遅れて届いてくる小さな音もおかしく、ある種の風情さえ感じられた。私はそのいっとき、ただ会社の煩わしさや、試験の味気なさを忘れて心が洗われるような気がしていたが、隣にいるカンちゃんは青雲の志をたぎらせていたかもしれなかった。
(あわさかつまお・作家)
連載・SERIES
花火いのち(14)商人宿と花火
川上信定
今年5月22目のこと。北九州・小倉での仕事を済ませた私は、午後3時すぎの特急で年少の友人と待ち合わせている佐賀市に向かうべく在来線のホームヘ向かっていた。
一と、コンコースの一角に花火のポスターを発見した。日田の川開き。8000発の予定とある。不覚!私はキョスクで時刻表を買い、日田彦山線の時間を調べた。大会が始まるまでにアクセス可能なのはたった1本。3時42分小倉発日田行とわかった。まだ20分ある。すぐ佐賀の友人に電話をした。ところが社に不在。タ刻まで外回りといわれた。ああ、やんぬる哉、である。
結局、佐賀に向かったのだが、こんなふうに旅先でポスターを見かけて急拠行った大会はいくつもある。四国や九州の花火を見に行くときは予め日程を調べ、1日A市、2日B町、3日C村と効率よく回れるよう予定を組むのだが、B町へ移動する途中でD町のポスターを見かけるとフラフラと降りてしまう。
そんなとき、まずやるのは宿の確保だ。私の場合、商人宿に絞ることにしている。ホテルや旅館が満員でも、小さくて目立たない商人宿ならまず空いている。
大洲の花火を予定外に見たときもそうだった。ホテル・旅館・国民宿舎は満杯。されども古い小さな商人宿が「夕食なしでよかったら」といって泊めてくれた。8、9年前で4月だった。
商人宿は情報の宝庫だ。宿の人や、食堂では隣り合わす行商人などから、ガイドブックには載っていない見どころや、神社の素朴な奉納花火に至るまで教えてもらえる。
伊勢の商人宿で知り合ったハンコのセールスマンは、「花火のことは詳しゅうないけど、岐阜の付地峡の花火はなかなかでっせ」と教えられた。
翌年、付知に出かけた。中津川から北西にバスで行く。山が三方に迫り、さほど川幅がない川が流れているのだが、人家が少なく十分な保安距離が取れるので、なんと7号玉まで揚げていた。10号の迫力があった。旧盆だったがこのときも運よく商人宿に泊まれた。
実をいうと私は、日田という町は通り過したことはあるが、降りたことがない。広瀬淡窓の詩で知られる感宣園はじめ史跡の多いしっとりした町だという。木材はじめ物資の集積地として栄えたというから商人宿にはこと欠かないはずだ。温泉もあるという。かえすがえすも借しいことをした思う。
残念ながら少なからぬ旅館が一人客には木戸をつく。経験でいうと5軒に3軒はそうだ。腹が立つ上に交渉がわずらわしい。仮にとめてくれたとしても観光旅館は高い。商人宿の3、4倍はとる。ならば花火行脚の際は極力予約などせず、予定変更何でもありということにして、行きあたりばったり風の吹くまま、商人宿から商人宿を泊まり歩くのがよい。今年は中・四国地方でそれをやるつもりだ。
サークル同人・新刊「花火大会に行こう」著者
ポカ物
清水武夫
ポカまたは丁寧にポカモノという人もある。ポカッと玉が二っに開くからポカである。音からきたものらしい。風船・達磨・馬・牛などが玉に入れてあり、こんなものが夏空や澄みきった秋の空に浮かぷと子供たちは一斉に走りだす。懐かしい風景である。今日本ではこんなのんびりとした風景はほとんど見られなくなった。
ポカは割物と対称的な花火である。割物には一応中心があるが、ポカにはない。玉の詰め方もただ玉殻の中に、空で開かせるものや、ぱらまくものを入れただけで、あと外を数回紙で貼ればよい。ところが案外、ポカ玉の作り方は難しいのである。どんなところが難しいか、ここでよく起り、また筆者が経験した例を挙げよう。
まず、玉が丸いために起る事故である。しっかりとものが詰まっていない玉では、発射の衝撃で中味が回転するから、導火線の火道が切れてしまって玉が開かず、いわゆる黒玉になる。必ず回転止めの仕掛けを施さねばならない。せっかく、しっかりと詰めたつもりでも、輪送中に中味が緩んでこうしたことが起るのである。
次に玉殻の強さが一様でないために起る事故である。玉殻は、厚紙を圧搾して作ったものが、現在ほとんどの工場で使われている。40年前までは木製の玉芯の上に新聞紙を貼り重ねて自作する人もいたが、現在ではこのような篤志家はいないようである。現在のボール紙玉皮は強度が一様ではない。従ってこれを2つ合わせて1つの球にした場合、最も弱いところに穴が開いて中の割薬のガスがそこから吹き出し、玉が2つに割れないことが起る。玉がうまくポカッと開くことがポカたる所以である。このように開かぬと中のものは、出ようがない。
次に玉の中味の問題がある。多摩河原での経験であるが、発音体を従来の「らっきょう」型の代りに筒型にしようと企んだことがあった。らっきょう型より筒に音薬を入れた方が、製作の手間がずいぷん省けるからであった。実験玉は、確か6号程度の中玉であったように記憶する。第1発を発射したところ、筒口から上約50mのところで大音響とともに玉が爆発した。いわゆる過早発である。幸いに遠くで見ていたので、誰にも怪我はなかった。次いで第2発目を発射した。この玉は上空まで無事に昇ったが、そこで、“ダーン”と大音響とともに爆発し、いわゆる号砲になった。発音体は5個入れてあり。五段雷のつもりであったが、全部一度に爆発したのである。それ以来私は、先人の開発したらっきょう型が、いかに安全であるかを悟ったのであった。よく、花火技術は非科学的だと説教する人がある。しかし現在の科学をもってしても、まだ分からぬことがいっばいにある。実験しながら、安全を確かめつつ進むのが最も良いのであろう。
花火愛好家奥村 純の
「花火大会よもやま話」(13)思い出の丸子多摩川花火大会
首都圏で「丸子多摩川大花火大会」という花火大会がかつて開催されていたのをご存じの方は40歳を越えているだろう。
東京都と神奈川県の境を流れる、多摩川下流丸子橋の上流方で、昭和24年から昭和41年まで、18回開催され昭和20年代後半から、昭和30年代前半にかけては両国の花火と並んで、首都圏を代表する花火大会であった。
ちなみに、東急東横線の丸子橋の川崎側上流方堤防がコンクリートで階段状になっているのは、当大会の観覧席に供するためであった。
筆者のかつての自宅から、4号以上の主要芽打ち上げ場まで、直線距離でちょうど、1,000mだったこともあり、昭和21年生れで、幼児期の記憶の稀薄な時期を含めて、全て当大会を見学している。筆者を花火ファンにしたのは、当大会なのである。
多摩川の川崎側から打ち上げていたが、当然東京方からも見学できた。しかし、枠仕掛けは毎年の風向きが南のため、東京方に流れ、川崎側でしか見学できなかった。ちなみに、かっての拙宅の2階からは真正面に打ち上げ花火を見学したが前方の林などのため、仕掛けの裏打ちスターマイン特2号は、上半分しか見えなかった。
昭和30年からは多摩川河川敷で見学するようになり、すさまじい観客にびっくりした。
1 歴史
第2次世界大戦前の昭和6年、故伊藤栄作氏の企画で、東京急行電鉄の主催により、「全国名人煙火競技大会」と銘打ち、第1回大会を開催している。多摩川にかかる丸干橋を挟んだ2ヵ所から打ち上がった。この大会は昭和12年まで続いた。
戦後は昭和24年8月6日と7日の2日間、日本煙火協会の主催で、復活第1回大会が開催された。打ち上げ場所は丸子橋上流の1ヵ所のみとなった。昭和25年から昭和29年までは主催が毎日新聞社で、当然毎年1日のみで、7月か8月に開催されていた。昭和30年から中止の昭和41年まで主催は、東京急行電鉄、神奈川県観光協会、川崎市観光協会連合会であった。
第2次世界大戦後の混乱期で何もない昭和24年から開催したが、当時はテレビは当然として他に娯楽もないため、現在では考えられない人出であった。電車の編成も短かったためだろう、近在の観客は徒歩にて来たため、花火終了後は、拙宅前の道路も見物客であふれ返っていた。それは近辺の二子玉川等の花火大会より当大会が、規模が大きかったためである。
大会当日は朝6時の雷に始まり、午後からは多数の昼花火が打ち上げられ浮遊物が空を漂い、いやが上にも花火大会ムードを盛り上げていた。昭和30年代前半まではこのような状態が続いた。大会の規模は昭和30年代後半に入ると縮小傾向になり、中止の昭和41年にかけて、枠仕掛けの台数はそれほど減らなかったが、昼花火は大幅に減り、夜花火も少し減った。
観客もテレビの普及、他の娯楽も増えたためだろう、徐々に減少していた。そして、交通事情の悪化との理由で、昭和41年を最後に中止となってしまった。確かに、自動車の大幅な増加により、広範囲な交通止めは、花火に興味のない人にとっては迷惑だろう。日本全国、昭和40年代より、すべて自動車中心に動き出したのである。
(参考:毎日新聞・城南宣伝版・昭和40年7月30日)
2
打ち上げ号数等
昭和24年から昭和28年まで、2尺玉を毎年1発。それ以降最大は、昭和35年までは10号、中止の昭和41年までは7号を上げていた。川幅が300mでの10号は、河川敷内で見学していた筆者等の完全に頭上で開花しており、空気振動、そして視界すべてが星になり、圧倒的な迫力で、完全に花火にしびれていた。それも10号の早打ちになるとさらに地響きまで加わり、恐怖すら感じた。花火の発数は筆者の勝手な計算によると、昭和30年代前半で裏打ちスターマインまで入れて約5000発、昭和41年の最後の年で約4000発であった。現在の大規模な大会に比べると、発数は少ないが当時の他の大会の比べると、格段に多かったのである。
(中略)
5 2尺玉
前にも記したが当大会では、昭和24年から昭和28年まで毎年1発の2尺玉を上げていた。多摩川河川敷周辺は昭和20年代後半でも、田・畑ばかりで、夏には蛍すら飛んでいて、現在の住宅等の密集地からは想像できないが、保安距離が取れたのである。一般の打ち上げ場とは別の、多摩川上流の河川敷からこの2尺玉を上げていた。
筆者は現在でもはっきりと覚えているが、毎年「昇り小花付彩色千輪菊」が上がっていた。当時は2尺に曲導は無理なのか、毎年昇り小花のみであった。文字通り空いっぱいに、いろいろな色の菊が咲いていた。この2尺玉は、故青木儀作名人の作品だったということを、過日、武凄輝彦氏よりお聞きして、筆者が花火ファンになった出発点に、このような超高品質な花火を見学していたことを、改めて感激したのであった。
6 昼花火
中止の昭和41年まで、雷・各色の煙柳・煙竜等の各種の昼花火を上げていた。これらの花火はさすがに、長野の名人達の作品だけあった。素晴らしい色煙が出ていた。昭和33年まで、現在では全く見られなくなった、浮遊勿を多数上げていた。吊り物の連旗・単旗等、袋物のだるま・魚等である。前にも記したが、毎年風向きが南なので、東京方の拙宅方向に丁度これらが飛んできて、毎年これらを目指して、争奪戦が繰り広げられていた。筆者も昭和32年に日の丸を手に入れている。パラシュート直径0.9m、日の冗長辺1.5m、短辺1.0mである。現在でも筆者の「お宝」として大事に保管している。
しかし、悲しいことに昭和33年、これらを取ろうとして、大人達に押し倒され、12歳の少女が死亡している。そして、翌年からは浮遊物は上げなくなった。
ちなみに、子供心に昼花火の発数を(昭和34年)数えたところ、約600発あった。その後、徐々に減じ昭和41年の最後の年で、150発と大幅に減少していた。
7 おわりに
第2次世界大戦後の混乱期に始まり、高度成長期に入ったところで中止になってしまった当大会であるが、娯楽が少ない時代に、他の花火大会では見学できない、高品質な打ち上げ花火と、豪華な枠仕掛けで、人々へしばしの夢と希望を与えた大会であった。当大会は昭和42年から中止となった。そして翌昭和43年からは京王多摩川大花火コンクールも中止となってしまった。幸いなことに、両国の花火は、昭和53年に隅田川花火大会となり再開され京王多摩川も昭和57年に調布市花火大会として再開し、両大会とも、現在は非常に盛大な大会となっている。大規模な花火大会で、再開されていないのは、当大会のみとなっている。各地の花火大会ブームを見るにつけ、コンクリート製観覧席がすでに整備され、立地条件のよい当大会が、再開されていないのが不思議でならない。
東急東横線の複々線工事も、丸子橋前後はほぼ完成しており、輸送体側も確立されつつある。丸子多摩川大花火大会再開には、金額・警備等種々の困珪が予想されるが、強く再開を祈念したい。
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特集 花火競技大会審査考(2)
審査貫の構成いろいろ
花火は誰が見てもきれいなもの一花火鑑賞にブロもアマもない。花火コンクールの審査員は誰がやっても大差ない一という説もある。しかし花火を見慣れた人と余り見たことのない人の観る眼には差が生まれる。創造性を尊重するということにしてもその評価は違ってくる。通常、画にしても小説にしても審査は、その道の大家である作者が主にやっている。(美術評論家とか、文芸評論家という存在もあるが)花火の場合は別である。もっとも、昔(大正時代)の競技会では業者が審査をやった時代がある。何人かの花火師が選ばれて、自分達の作品は採点せず除外する。さらに公正を期するために、現在のフィギュアスケートの採点と同様に、最高と最低の点を外して平均点を評価したという。しかし他人名義で審査員は出品もしており、好敵手の作品には比較的低い評価をする例などがみられたため、結局中断してしまったという。当時の花火師は今ほど紳士ではなかった。
初期の競技会は、神社に奉納する地区地区で集まるローカル的な大会が主であったが、最初の全国大会とみてよい茨城の笠間稲荷の大会では、審査を取締官庁である内務省の松岡技師を長として、茨城県・関根技手、栃木県・橘技手に陸軍砲兵工廠の2名の技手(荻島・当座)を加え5名で担当している。(敬称略)
当時は信号筒などを陸軍工ぼで作っており、煙火製造の権威者とされていたわけで、後に陸軍兵器学校の教官を務めた当摩吉蔵氏は、土浦・宇都宮などの大会の審査に当たっていた。この他、東京(帝国)大学の西松教授などが加わると権威あるものとされた。
2組の審査があるという大会もあった。主催者が決めた審査と別に、地元の有志が別に賞金を募り、愛好者で別の審査をして副賞を出すという大会が、大正末期に静岡県三島で行われている。
自分で花火を作る愛好者ばかりでなく、当時は花火を熱愛する旦那衆がいて、職人を養い身上をつぶす例もあったという。米の相場と共に花火に溺れるなと戒められたといわれる良い時代であったわけである。花火の審査は、見かえし読みかえしができない。1回で消えてしまう。それだけ難しいし、エラーが伴いがちになる。いったん決めるとなかなか訂正ができない。そのため打揚順の若い出品は、上位に入賞しにくいということになりがちである。こんなハプニングも起った。戦後、輸出振興を看板に開催された東京詞布の競技大会で、雨中の打揚げが行われたある年のこと。雲が低く垂れ込め、前に打揚げた玉の煙の中に開く尺玉が続出した。本命といわれた長野A煙火の玉も一般審査席から見ると、ただ轟音と共に雲を明るくしたに止まった。驚いたことにその玉が優勝した。審査員に先入観を与えないために、競技会のブログラムには出品者名を出さないという処置がよく取られたものだが、審査のために必要でも、多くの観客のためには不親切なことであった。本来花火の審査は、100%公正な判定を求めることは、無理なことなのかもしれない。(T.M生)
研究
空飛ぷ円盤(人工衛星)物語
10cm足らずの円形のアルミ板が、飛び上って動く「空飛ぶ円盤」の出現は、驚天動地のハプニングであった。シューという発音を伴って10m余飛翔する、しかも方向性が定まらずに、どこに飛ぶか分からない面白さは人気を呼んだ。
アルミ製の弁当箱を切り抜いて円盤を作り、ロケット花火をつけて飛ばすという工夫は、大阪の南海煙火の栃尾親彦氏の発案であった。花火業界で、特許や実用新案が通用して財産を作ったという例は、あまり多くない。その数少ない特許が生かされたトップ商品といわれた。危険が伴うスリル豊かな花火一ということは、がん具花火の強力な武器である。国内は勿論、輸出商品としてまさに飛ぶように売れた花火だった。
4枚羽で作られた円盤は危険性が高いといわれて、羽根の周囲を囲む“人工衛星”も工夫された。とにかくこの“不安定”といわれた花火は、会社を安定したものにし、栃尾社長は(社団法人)日本煙火協会の三代目会長に推されるに至った。協会が昭和39(1964)年東京蔵前国技館を会場に開催した輸出がん具展示会では、空飛ぷ円盤が最高の傑作と審査され、通産大臣賞を受賞した。この展示会はこの年だけの行事となって継続しなかった。このため打揚花火は毎年2つの全国競技会で通産大臣賞が授与されている、に比してがん具花火には今日まで唯一大臣賞となってしまっている。しかし世の中はなかなか平穏が続かず、全国的な風潮として児童福祉協会が各県ごとに結成され、その事業の1つとして(不良がん具の一掃という看板で)がん具花火の審査が各地で流行した。その非難品目のトップに“空飛ぷ円盤“が登場したわけである。こんな危ない花火が通産大臣賞とはという声まででてくる始末。さらに特許の期限が経過すると共に、中国などで模造品が製作されるなど、需要も順次後退するようになってしまった。
なおこの各府県に作られた児童福祉法は、花火業界に影響するところ極めて大きかった。この花火の審査は年中行事として続けられ、昭和62(1987)年までも山口・福井・岐阜の3県では行われていた。特に山口県は昭和62(1987)年度にも彩礼花・音響入宇宙ステレオなど18種を不良がん具と指定し、昭和48(1973)年以来約15年間で121種を使用禁止の措置を取っていた。空飛ぷ円盤でケガをしたとか、「屋根に刺さって火事の元」などという非難は、寡聞にし当時余り聞かなかった。しかし、見る目には大変勇ましい花火であった。
話題
ホームページ「日本の花火」の近辺
小野里公成
ホームページ「日本の花火」を立ちあげてから4回目の夏が来ようとしている。去年あたりまでのインターネットの加入、ホームページの設立ブームの加熱していた時期が過ぎ、個人や情報誌関連のホームページが花火の日程情報だけ取り扱う、といった傾向はかわらないものの、だいたい常設の花火関連ホームぺージは安定してきているように思う。もちろん個人や煙火業者で新設のページを掲げるところもあり、今後が楽しみだ。
今年もまた、各花火大会ごとの主催者サイドによるページが期間限定で開設されるだろうし、去年好評だった花火大会の生中継によるライブ映像も楽しみだ。ただこうした花火ページには、季節限定や期間限定の物も多く、自然消滅するサイトもかなり発生する。99年現在、花火のページとして生き残っている古株のサイトは、独自性や個性がはっきりしたところのみといえるだろう。
最近では冬場でも一日で数10件のアクセスがあるが、ピークはやはり4月過ぎからだ。4月から6月にかけては、情報誌関連がさかんに日程情報を引き出している。しかしこれらは各情報誌の不毛な速報合戦がエスカレートしているためだ。だいたいいくら早く特集を組もうにも主催者側で何も固まっていない内からの問い合わせなので、フライング情報も数多く掲載される。こうしたアクセスにとっては「日本の花火」の日程情報は、「網羅性と常時掲載している」という点で作られているもので、いち早く報じるためではないから、あてがはずれるかもしれない。実際の観覧客となる一般の方からのページアクセスは、やはりシーズンを間近にした7月上旬からで、これが自然な利用といえるだろう。
「日本の花火」制作の根元の理念は情報の発信と共有であり、それはインターネットの基本理念でもある。
ホームページを制作をしているのは、個人である私だが、個人が収集し提供できる情報には限りがある。その点で、煙火業者をはじめとして、花火愛好家や、ページの多くの読者から常日頃寄せられる意見や情報が、「日本の花火」を支えているのであり、たいへん有り難いことだと思う。個人の無償の提供によって、今ではより多くの情報が得られるようになったともいえる。私的な花火愛好の権化として生みだされた「日本の花火」ホームページが、今後は、花火関連業者や一般の花火愛好家にとっての、交歓と情報共有の場としての性格を持っていければと思っている。3月に行ったページの引っ越しに伴い、こうした新たな交歓の場として設けた「掲示板」のページからも新しい「声」が聞こえてくるのが楽しみである。ページ管理者としては、こうした場での、マニアックになりすぎないためのバランス取りに気をつけて、花火好きの程度を問わない意見や情報がより多く交わされればと願っている。
パーソナルコンピュータを所有する煙火店もだいぶ増えてきたようで、こうした煙火業者からも電子メールをたびたび頂戴する。これらもページ管理と花火観覧を続けていくこと大きな励みになっている。
国内からの問い合わせで目立つのは、業界に関わるものとしては、若い読者からの「花火の仕事をやりたい」というものだ。「日本の花火」では、さすがにホームページを見て、花火打ち上げの注文をすることはないだろう、と業者の斡旋もしていないし、数多くの煙火店の連絡先を掲載しているわけではない。しかしながらこうして、花火との職業的関わりを持ちたいと願う声も寄せられてとまどうことも増えてきた。
海外からのアクセスや問い合わせも不備な英語ページにも関わらず相変わらず多い。「日本の花火」は観覧者よりのサイトであるが、その内容は、インターネットといういわば全世界対象の情報発信行為としても世界一の規模を持っている。完全なる英語化が望まれているが、それは徐々に実現する方向である。
今年になってからは、やはりミレニアム、つまり新世紀を祝う花火イベントに関する問い合わせが多い。すでに外国の花火業界ではこのまさに世紀のイベントに備え、数年前からコンシューマー向け(玩具や大型玩具花火)から打ち上げ花火に至るまで、特需を喚起し、応えるための体制づくりをしてきたようだし、実際に海外ではかなり盛大なセレモニーやイベントに伴う打ち上げが計画されているようだ。だから海外から見れば、花火が盛んな日本ではさぞかしや、よほどのことをやるのではないか?と期待されているのだろうか。残念ながら、今のところ日本からは、海外向けに発信できる情報がないといった状態だ。
こうした海外からの問い合わせに応えるかたちで、花火関連ホームページや業界紙への資料や記事の提供も行っている。最近の例では長野オリンピックの花火写真と当日のリポートを、米テキサス州の花火業界紙へインターネットを介して配信した。また、海外の花火ホームページは日本以上に多いが、ドイツの若手の花火師Markus Klatt氏の要請で、氏の日本の花火を紹介するページに(ドイツ語)花火写真を多数提供している。
今後は各国の花火関係者とのネットを通じたグローバルな展開もしていきたい。
NEWS
「火薬類を取扱わない」業者出現?
神奈川県は最近法改正や通達などで、新たに定められてきた販売許可の条件等について、県下の運用方針を6月1日付で通知した。その趣旨は、
◆自衛隊や公安委員会等に輪入品を納入する業者が、火薬庫を所有せずに営業できる件については「火薬頚を取扱わないこと」を許可条件とする。
◆建設用鋲打銃用空包の業者は、業界との協議の上、庫外貯蔵庫だけでも責任者を定め、所定の記帳などを行う。
◆模型用ロケットに用いられる噴射推進台及ぴその点火具については、業界との協議が決められるまで従来通りとする。としている。
地方移管へ移る段階として、各都道府県で独自の方針を決定していくことが、活発化する一その端緒として注目したい。
COLUMN
若い花火師の夢
秋田 久米川和行
人間がこの世に生を受け、幸せだと思う瞬間は人々を感動せた時だ、とあるジャーナリストが話していた。納得のいく話であったが、それと同時に花火師という仕事に、大きな誇りと少しの危機感を覚えた。危機感というのは、私には何万、何十万の人々を感動させることができるか、ということがこの時脳裏をかすめた。現在の花火は先輩達の情熱と努力によって進歩し、ある程度は、様々な実験や研究で、理解できることも出てきた。最近では、打ち上げの演出の重要性も花火師に求められるようになり、コンピューターの導入やレーザーを使った演出も珍しくはない。花火大会そのものが一つのライブとして誕生している。そして今はそのような花火大会を観客は望んでいる。それに答えていかなければいけないのも、現実である。
しかし、私は演出ばかりにこだわるつもりはない。時代の流れに沿って、大切な伝統を忘れることは、許されることではないと思う。父はよく私に「今の時代はいいよ」といって、昔の苦労話をする。確かに今の私には真似のできることではない。しかし伝統を守りながら、新しいことに挑戦し、観客を満足させることも簡単なことではない。そして最後に私の夢は、やはり日本の伝統でもある大玉を完成させることである。演出云々などと述べてきが、今の自分に一番必要なのは、花火を作る技術であることは間違いない。((有)仙北火工)
万華鏡
花火は芸術である。大空という雄大なキャンバスに表現する七彩の美=これ以上男性的な創作活動があるだろうか一と私は信じて疑わない。しからば我々は、この美術を芸術として認定させ、評価させ、公認させる行動に努めているかと自問したい。誰がどのような形で、花火を芸術と認めればよいのか?それを作り演出する、本人が自認すれば済むことでもない。愛好する者が、優れた作者、優れた作品を、評価し賞賛すればことたりることでもない。花火は瞬間の表現であり、繰り返し再現できない。あまりにも華麗で変化が多いために、これを完全にキャッチする“眼”を持つ人は少ない。花火の競技会は開催され、選ばれた人によって審査されている。しかしその評価の基準は“あいまい”であり、絶対なものでもない。本誌がこの2〜3号で問題を提起しなければならない原因を生んでいる。毎年4月と10月に褒章と勲章が多くに人々に与えられている。その中に紫綬褒章という「学術・芸術・発明など顕著な功績のある者」に与えられるものがあるが、そのメンバーをながめると、煙火業界も対象になってもよいような気がする。優れたいわゆる“芸術”家に与えられているものであるようで、主管は文部省=文化庁といわれている。一応国が“優れた芸術”と認定した結果とみてよい。
「国が公認する」ということが、芸術として認定することになるかならないかは別として、業界の権威を高める一つの手段であることは事実である。火薬という危険物を取扱っているために“火薬頭取締法”の規正を受け戦前は警察(内務)行政、戦後は通産省の管理を受けてきたために、直接文部省(文化庁)と接触する機会を特たなかった花火である。
秋田県の大曲で全国花火鏡技大会が開催される関係から10年余前、地元選出の農林大臣を務められたことのある根本龍太郎代議士とお話する機会があった。その折先生から「日本の花火は優れた文化財=芸術ではないか。もっと文部省と密接な関係を作って活動しなければいけない」というご忠告を受けたことがあった。ごもっともと感じたことであったが、なかなかの難問で、今日までさしたる動きを見ていない。しかし正論に違いない。
一つの稼業として花火を取扱ってきたが、これを金儲けの手段だけに終えることは誠に侘びしいことである。“芸術”に昇華させることを真剣に考えてよいのではなかろうか。その手段・方法・順序は何か=業界の課題として考えたいものである。
武藤輝彦
編集後記・FROM EDITORS
★毎年6月に開催する煙火の事故研究会では来年に迫った地方分権について、法改正の方針を明らかにした。取締法の各所各条に「通商産業省の定めるところにより」という項目が加わった。通産省と通産局さらに都道府県の、権限・役割が大幅に変わるようだ。前号でも心配したが、県ごとにバラツキが大きくできるに違いない。“ゆるやか”とか“きつい”などという言葉が漏れてくることは望ましいことか?如何だろう。
★特に検査について代行する機関が指定されるという。プロパンとか電気とか、対象業者の多い業種と違って小さな世界。県ごとに作られるのか通産局ごとか。とにかく対象者が少いだけに、それだけで営業するには程遠い。各県の保安協会の仕事のひとつとするか、煙火協会支部の事業となるか、業者の負担増になることだけは避けてほしいし、お役人の天下り機関になるのでは論外である。
★法改正に当り、必要最小限の守則を告示などで補足するときく。この際業界が多年にわたって“難渋”してきた問題を加えて、スッキリとしたものになることを望みたい。がん具花火の指定(1条の5)や電気点火具の取扱などがその対象になると考える。
★とにかく地方分権が我々煙火業者に、プラスをもたらすかどうか。いずれにせよ地方行政に過重な負担を加えることだけは、避けられないように思われる。
特に従来メーカーの存在しない県も8県を数える。不在の県でも予め万全の態勢は準備する一大変な事業。
★当“万華鏡”の使命は、各都道府県の行政・方針などをできるだけキャッチして全国の関係者に広知する一が加わるようだ。いろいろな県の行き方を承知して、なるべく同じ基準で仕事をしていくようにしたい。煙火協会がやれないことを補う役がある。皆様のご賛同・ご協力を希望する次第である。今号から「がん具花火の法的規正史」を何回かに分けて連載する。死文に属することも一読してみてはいかがでしょう。これもこの季刊紙の役割では?
T.M.生
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