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発行   サークル花火万華鏡
編集同人 川上信定 武藤輝彦      
     矢野誠一 奥村 純   
     小野里公成
発行所  〒201-0003 東京都狛江市
     和泉本町2-34-4 武藤輝彦内
定価   年4回発行
     1500円(送料共)
郵便振替 00130-9-663056

花火万華鏡第22号(2001/7/10発行)より一部の記事をご覧になれます。

バックナンバーを読む
●FRONT PAGE
 椀のにおい -出久根達郎
●連載
 花火いのち(22)緑の大柳火 -川上信定
 割物について(3) -清水武夫
 全日本輸出振興花火競技大会(京王多摩川大花火コンクール)・
 調布市花火大会 -奥村 純

●特別募集企画 20世紀の後半花火ベスト5
 読者の推薦による傑作花火ベスト5 掲載第3回
●NEWS TOPICS
 
ドームの中で花火が上がる
 芸術協会来年から出品火費改正
 「公から私へ」のもたらすもの
 線香花火を愛する会、活動開始
 恒例の自己防止講習会開催
 近江八万篠田の花火、今年の図柄
●寄稿

 花火夢想2 -三谷秀一
●研究

 玉屋の前に玉屋があった -武藤輝彦
 2尺、3尺に挑戦した西沢長蔵氏(長野) -M.T
●COLUMN
 
 申込保証金を取った競技大会
 質問箱
 若い花火師の夢 -脇野正裕
 万華鏡
●サークル紹介

 「花火の里」あさかわ -元・本町青年会長 小針喜紀
●編集後記

FPONT PAGE

椀のにおい -出久根達郎

 町内会の役員をしていた頃の夏の宵、花火大会の手伝いをしたことがある。公園で、子供達のために、花火を揚げて見せた。花火といっても、玩具のそれで、どちらかというと、役員たちが楽しんでいた。
 大会を銘打つくらいだから、玩具の花火とはいえ、普段⊃はお目にかかれなぬ豪華なものばかり、見物の子供たちは大喜びであった。おや?と意外だったのは、子供たちが「玉屋ア」と掛け声を発するのである。テレビで見て覚えたのだろうか。公園の、小さな花火大会は、これで花火大会らしい雰囲気になった。花火には、昔からのあの掛け声が欠かせないことを知った。
 両国の花火を、遠くから見物したことがある。音がほとんど聞こえず、全くといってよいほど面自くなかった。花火は音で見るものなのである。
 音花火というのもある。昼花火ともいう。学校の運動会の朝に上げる、あの花火である。
 あれは、いつごろから始まったものなのだろう。全国の小学校で行われたようだが、運動会と花火の組み合わせは、誰が発案したのか。今に始まった疑問ではない。私は小学生の頃から、不思議に思っていた。なぜ運動会開催の合図が花火なのか。
 私は母方の祖父に聞いたことがある。「景気づけだよ」祖父が答えた。「お祭りに花火はつきものだ。運動会だってお祭りだろう」
 「誰が考えたの?」「さあ、誰かな?」祖父さんは首をかしげた。「あるいは花火師かも知れん。花火師が村役場や学校に、上げさせろ、と売り込んだのかもな。商売だからね」
 私の祖父は、その商売人だったのである。花火を造っていたのでなく、花火打ち上げ師であった。運動会や祭りなどに呼ばれて、打ち上げ花火を手がける。祖父の話によれば、ずいぶん各地に出張したようだ。私の長兄は子供のころ、祖父にくっついて、あちこちを廻ったらしい。行く先々で菓子や餅などを供された。それが楽しみだったという。むろん祖父が子供連れで出かけたのも、孫に甘い物を食べさせたかったからである。しかし祖父は打ち上げ事故を起こし、両眼を失明した。私が知っている祖父は、いつも布団に座っていて、何を手みやげに持ってきたか必ず聞く、食うことしか楽しみのない者人であった。花火の話をすると、いやな顔をした。
 先のような会話を交わしたのは、珍しく、小学生の私が花火の椀を拾ったことを、直ぐと報告したからであった。火薬を詰めた玉は、ドーンという音と共に空中で二つに割れて、落ちてくる。吸物椀の形をしているので、子供たちは椀と言っていた。これを拾うために、空を見上げながら走って追うのである。拾った者は、英雄であった。私はたまたま落下地点に立っていたのである。目の前に落下した。
 椀は和紙を何枚も貼り合わせて、作られていた。意外に、軽い。鼻を寄せると、こげた火薬の、いいにおいがした。私は宝物にして、時々、においをかいで、うっとりとしていた。そのうち、何のにおいもしなくなった。
 においが無くなると、それは変哲もない、ただの紙容器でしかない。私はつまらなくなって、破棄した。
 この間、地方都市を散歩していたら、近くで音花火が上がった。青空を撃ち抜くように、自い煙が点々と染まった。私は長いことたたずみ空をながめていたが、椀らしき物の落ちてくる様子がない。最近の花火は、椀を用いていないのであろうか。しばらくたって、また、鳴った。私は、「玉屋ァ」と、声に出さないで叫んだ。
 ところで、あの花火は、何の合図の花火だったのだろう?学校の運動会だったのだろうか。
連載・SERIES

花火いのち(22)緑の大柳火 川上信定
 

 六月中旬、仕事で東北を巡った。仕事を終えて北上でスタッフと別れ、在来線で盛岡の二つ手前、岩手飯岡に向った。
 北上川は駅の東方三キロの地点を流れている。私が岩手飯岡に降りたのには二つの目的があった。
 一つは、都南の花火の会場を見ること。もう一つは瀧源寺の「緑の大柳火」を見るためであった。
 現在は盛岡に編入された旧都南村は名の通り盛岡の南方十キロに位置する。現在呼称は都南地区。ここには村時代からの商工会が健在で八月上旬、花火大会を主催している。俗に「盛岡の花火大会」とは「都南花火大会」なのである。
 一昨年の大会当日、盛岡市内の居酒屋で冷酒を飲んでいた私は、今日は都南の花火の日だと客の一人に教えられアワをくらって店を飛び出した。 
 飯岡駅に着いたのは、八時過ぎ。人混みの中を都南大橋目指して早足で歩いたが行き着かないうちにエンディングの銀冠連発となった。したがって私は会場を見ていない。だから明るいうちに見るべく降りたのだ。
 橋の駅側が打上げ場所。人家は点在するものの田や畑に囲まれたのどかな会場である。北上川が大きく湾曲しつつ流れている。ハッとしたのは上流真正面に、岩手山がデーンと鎮座していることだった。会場で始まりを待つ見物客は嫌でも岩手山とにらめっこをすることになる。会場が山裾というのは珍しくないが、名山をこれほどじっくり鑑賞できる会場はそうはない。
 聞けば同大会は秋田の小松煙火が担当、総計6千発、尺玉も40発近く揚がるなかなかの規模とのこと。3部構成で、花火の種類の紹介コーナーを設けているとのこと。これはいいことだ。他所でも観客啓蒙という見地からぜひ実行してほしいものだ。よし、今年こそじっくり見るぞと決めて、瀧源寺にタクシーを急がせた。
 寺の裏に、高さ30メートル近いカツラの木がある。何とも不思議なことにその枝が枝垂れているのだ。すなわち「瀧源寺の枝垂れカツラ」で大正十三年、国の天然記念物に指定されている。対面したのは十年ぶりだ。
 シダレカツラの突然変異種で雄性。したがって接ぎ木でしか増えない。子孫が盛岡市内に何本かあり、さらにその子孫が篤農家によって各地に贈られている。樹幹から大きく外へ膨らんだ枝は五メートルほどで垂れ、さらにそこから全部で六〜七段に分かれながら滝のように地上近くに至っている。この何とも美しく奇怪な形状から私は「緑の大柳火」と呼んでいるのだ。夕方近かったので観光客はほとんどおらず、心ゆくまで堪能した。地上近くまで垂れてきた枝からハート型の葉を2枚項戴して手帳に挟んだ。
 どなたか腕に覚えのある花火師がこの「緑の大柳火」を空に咲かせてくれないものかと夢見ている、
 
サークル同人・新刊「花火大会に行こう」著者
割物ついて(3) -清水武夫(工学樽士)

 星を飛ばす原動力は割薬である。その成分の中で特別に重要な成分は炭である。その作用は化学分析などの方法ではなかなか分かり難い。麻炭のように灰分が多い炭もあるが、この灰分はカリウムのような燃焼のために重要な原素を合んでいるから、炭素の純分だけでは良否の判定が出来ない。今のところ実際に使ってみるしか方法がない。
 炭を実用上から大別すると、燃える炭と燃えない炭とに分かれる。燃える炭は火鉢や七輪などに使われる例の赤い熾(おき)になる炭である。燃えない炭はいわゆる煤(すす)である。煤は燃焼性のガスが高温の炎の中を通過して出て来たもの、すなわち潜りぬけて出て来たもので、これ以上は燃えない。炎の温度によってさまざまな性質を現わすし、それらの用途も異なるが、このことについては後日稿を改めて述べたい。
 日本の花火の割物、特にそれを構成する星の特長は固化剤にみじん粉を使っている点にある。飛んで行く星が次々と色を変える技術は今でも日本独特のものであるが、これはみじん粉を使うことによってはじめて出来るのである。焼いた餅を椀にとってこれに熱湯を注いでも、餅はその形を保って飴のように溶け出すことはない。これがみじん粉の性質である。普通に星用の配合薬には3〜5%のみじん粉を加える。
 約40年ほど前に私は北陸のある専門屋さんにみじん粉の作り方を教わったことがある。餅米を冷水中に一週間浸漬する。これを蒸器にとって蒸し、次いでもちづきして粘塊にし、薄くのばし、餅を焼くように焼く。焼き終わって固くなったものを粉末にするということであった。これが上等のものらしい。現在市販されているものは、餅米を精自し、煎って粉末にしたものであろう。上等のみじん粉はやや褐色を帯びていて、水を加えると完全にもち状になるという。化学的に言えば加熱して、水に溶けない澱粉を可溶性澱粉にしたということであろう。
 日本の割物の星ははじめに小さな切星とか菜種などを心にして水で湿し、ある厚さになるまで配含薬をかけて揺すぶりながら段々と生長させ途中に適当な乾燥を行い、適当な燃焼時間が得られるまで太らせて行くのである。途中配合薬の種類を変えれば何度でも発光色を変えることが可能であるが、これは花火家の芸術的な設計判断によるのであって、肉眼の作用を無視して何度でも変えるのが良いというものではない。
 今は少し活動が衰えたようであるが、ヨーロッパ煙火協会という集いがあり、オーストリヤのアルフレッド、ポコルー二氏が私をその名誉会員に推薦した。せっかくの厚意を無にすることも出来ないので私は時々その花火に出席せざるを得なかった。一番熱心な集まりはスペインであったように思う。花火の後の集いで講評を要求された。場所の一つはテネリーフェ、もう一つはムルシアであった。
 日本の花火に比較すれば芸術性は殆ど感じられなかったが、あまりそれを言うわけにも行かない。私の知らない芸術的な感覚が彼等にはあるのかも知れない。「私どもの日本の花火は一発一発と打揚げて楽しむものでありますが、ここのヨーロッパの花火は集団美をつくろうとしていることを感じます」といった苦しい答えになった。今の日本でもせっかく作られた割物を乱射乱撃で消費するような傾向になって行くようである。芸術性を無視した暴挙と言わざるを得ないと思う。
 割物をつくるときの危険点はなにか?最も注意すべきはその結含操作にある。異なった多数の種類の配合薬が一つの場所に集まるからである。もとよりそれぞれ安全な構造になっているかも知れぬが、完全かどうかを確かめておく必要がある。
(以下次号)
全日本輸出振興花火競技大会(京王多摩川大花火コンクール)・調布市花火大会
by 花火愛好家・奥村 純
 
 昭和29年から昭和42年まで、現在の調布市花火大会の上流の多摩川会場付近で開催されていたのが、全日本輸出振興花火競技大会である。かつての拙宅から会場まで約12Km離れてはいたが、天気の良い日であれば小さく見えていた。しかし、地元の丸子多摩川大花火大会と開催日が重なることが多く、現地で実際に見学したのは、丸子と開催日がずれた、昭和38年から最終の昭和42年までの5回であった。そして翌昭和43年より交通事情悪化のため中止となってしまった。
 15年間の空自の後、昭和57年から、競技大会ではなく一般の大会として、調布市花火大会と名称を改め、復活したのである。再開された当初は小規模であったが、しばらく経過して、現在のような大規模な大会になった。

1.全日本輸出振興花火競技大会(京王多摩川大花火コンクール)

 輸出振興とは現在では、信じられないが昭和40年代前半までは、日本中で外貨を稼ぐために色々と苦労していたのである。花火業者でも、昭和30年代中頃の資料を見ると、玩具花火で全生産量の半数以上を輸出していたし、打ち上げ花火もその1割を輸出して、外貨を稼いでいた。
 中国花火が  している現状からすると、想像出来ないのだが。当大会の競技種目は第2回の昭和30年で、昼の部8号1発、5号7発、夜の部10号1発、5号7発で、85社が出品していた。昭和37年より昼の部が中止となり、夜の部のみで10号1発、5号7発(割物5発、ポカ物2発)、スターマインとなり、昭和42年まで続いた。競技花火の合間には、広告仕掛け花火とそれに統く、裏打ちの小規模スターマインを上げていた。筆者が見学した昭和38年の大会では、競技スターマインの規模が未だ小さかった事もあり、余興花火として3号早打ちを時々上げ、間を持たせていた。昭和39年以降の大会では、競技スターマインが充実したためだろう、3号早打ちは中止となった。
 なお主催は、日本煙火競技連盟と調布市観光協会であった。

(1)スターマイン

 毎年20社から22社が参加していた。これは現在の土浦の大会とほぼ同数であり立派であった。銀冠菊、椰子は当然として、錦冠菊さえ登場していない時代であり、現在の花火の種類を考えると良くスターマイン競技を実施していたと、感心してしまう。最大5号までで、菊、牡丹、冠菊、柳等を上げていた。現在のスターマインに比べると、発数は少なく、100発前後でそれも規則がなかったため、会社間に差があった。そして、導火線結束の技術が未熟だったのか、打ち上げ中断が時々あった。次の広告枠仕掛けとその裏打ちスターマインの後に、間が抜けたように競技の残りの花火が上がる事もあった。
 とは言え、当時としては素晴しいスターマインが出品されていた。昭和38、39年はそれ程でなかったが、昭和40年になると、地元丸子多摩川で上げられるスターマインより立派なのが出品され、悔しかった思い出がある。昭和42年には、土浦の競技大会へも行ったが、伝統の違いだろう、同一花火会社でも、発数は多いし、より内容の良い作品を上げていた。当大会で筆者が印象に残っているのは、先割の音が開花音と相まって、リズミカルで小気味良かった。

(2)1O号、5号

 10号1発、と5号7発(5発割物、2発ポカ物)で1セットとなり、毎年33社前後が参加していた。10号は、昇り付きの芯菊、八重芯菊が多かった。最近の花火と比べて、色は劣っていたが、他の花火大会では見学出来ない卓越した花火が上がっていた。5号は、昇り付き芯菊がほとんどであったが、長野の名人ばかりの作品が上がっていた地元丸子多摩川の花火の方が良いという作品が、幾つかあった。とは言え、全体的に素晴しい作品が出品されていたのは当然である。

(3)玉名

 プログラムを見ると、10号あるいは5号の玉名が、「河畔の名花」、「多摩川ロマンスの花」となっている。「昇り付八重芯変化菊」、「昇り付変芯変化菊」とすべき所を、イメージで付けたのだろう。プログラムを見ても、どんな花火が上がるのか良くわからず、がっかりした思い出がある。
 因に同時期の土浦のプログラムには「昇り曲付八重芯変化菊」のように記されていた。なお、スターマインは現在でも通用する、「花のささやき」、「情熱の花」となっている。
 最近の「日本の四季」、「咲き誇る満天の花ばな」というように、各種花火が多数上がる事が予想出来る題名は流石なかったのは、発数が少なかったから当然である。

2. 調布市花火大会

 筆者が最初に見学した第3回、昭和59年の大会は現在の多摩川会場のみで、最大4号で中国製小型花火や乱玉が主体であった。同日に開催され、約2.5Km離れた読売ランド花火大会の、盛大な音と上空を流れて来る、その煙を見て、筆者はなんでこんな規模の小さな当大会に来たのか、自分自身が情けなかった。当然、翌年は見学しなかった。昭和61年に見学した時でも、規模は少し大きくなったとは言え、最大5号でそれも単発であつた。
 規模が大きくなったのは昭和63年からで、以後筆者は平成2年を除いて、全て見学して来た。昭和63年から打ち上げ場を多摩川会場と、約700m下流の布田会場の2ヶ所とした。しかし、主体は多摩川会場で、布田会場では7号、10号、15号と大ワイドスターマインを時々上げるのみだった。
 そして、翌平成元年からは現在とほぽ同じ配置となり、メインは布田会場となり、4号あるいは、5号早打ち、7号、10号、15号と大スターマインを、多摩川会場は、特2号以下となってしまった。
 
(1)10号100連発
 
 平成3年10回記念として始められたのが、10号100連発である。平成4年101連発、平成5年102連発と増えたが、平成6年からは100連発に戻った。そして、現在まで続いている、当大会の名物花火である。打ち上げ場の条件により、長岡のようなワイド打ちが出来ないため、1ヶ所からの打ち上げとなっている。使用されている玉は、かっては7号かと思われる盆の小さな玉や、いびつな玉が少し開花していたが、最近は質の艮い花火ばかり上がっている。芯菊、八重芯菊、千輪菊、小割浮模様、花車、型物、万華鏡等の、10号で考えられる種々の花火が開花している。しかも、それぞれの花火を良く見せるべく、打ち上げ順序を考え、さらに段打ちのピッチを変え、冠菊系統では一斉打を入れ、色々と工夫を凝らしている。
 打ち上げ順序の傾向は大体、芯菊から始まり、各種花火を打ち上げ、芯入り錦冠菊で終了する事が多かった。
 毎年八重芯菊、三重芯菊が上がっているが、平成12年に於いては、八重芯菊6発、三重芯菊3発と大サービスであった。
 当花火の打ち上げが開始されると、打ち上げ音、開花音、それらの空気振動、そして夜空で開き続ける花火と、会場全体が完全に花火の醍醐味に酔い痴れるのであった。

(2)15号
 
 打ち上げ場が多摩川会場と布田会場に分かれた、昭和63年より15号を上げはじめた。
 昭和63年は1発だったが、翌平成元年には開幕に1発、終盤の錦冠菊の超特大スターマインで昇り付芯入り錦冠菊を上げている。年により、それらに錦大葉が入る事もあった。さらに平成9年には、芯菊で八重芯変化菊が開花していた。1ヶ所からのスターマインで多数の4、5号に続いて、7号、10号そして15号と、段階的に花火が大きくなり、その大きさの違いがはっきり会得出来るようになっている。
 広い会場で案内放送が聞こえるのは一部の区域のみで、大型花火の打ち上げが多数の観客に告知されるわけでもない中で、このようなスターマインの中で、15号を打ち上げるのは、多数の眼が注目しており、大玉の演出方法として良いと、筆者は考える。

(3)スターマイン
 

 布田会場では河川敷が広いのを利用して、打ち上げ場所を離した、2ヵ所ないしヵ所からのワイドスターマインを上げている。5号まで入っており、さらに中央から7号、10号が上がる事もあり、豪華である。内容は花雷、椰子、蜂、各色スパンコール等で、そして打ち上げを担当している丸玉屋小勝煙火店が得意とする、斜め虎は打ち上げ場所を増やし、何回も発射して人気のブログラムになっている。近年は不況の影響だろう、2ヵ所からのスターマインが増え、さらに打ち上げビッチを遅くして発数を調整しているが、ワイドスターマインの効果を考え点火しているので、その素晴しさはそれ程減っていない。
 毎年最後は3ヵ所から多数の銀冠菊の段打ち、続いて銀冠菊と花雷一斉で終了している。
 なお、多摩川会場では平成11年まで、多摩川の中州を利用して、特2号によるワイドスターマインを上げていた。しかし、川の流れが変化し、中州が消滅したため、平成12年からは、河川敷のみ使用で、1ヵ所からのスターマインになったが、斜め打ちのみワイドで上げている。

(4)早打ち

 布田会場では10回大会である平成3年より、ワイドに3ヵ所より4号又は5号を焼金式早打ちで上げている。普通の早打ちと違うのは、ザラ星が付き、さらに特2号あるいは3号が下で開花した後に、上で4号又は5号が開いている。つまり重ね玉である。
 ワイドに3ヵ所から、ピッチの遅いスターマインを上げているのと同じで、夜空が花火で覆われるのだから、豪華で迫力がある。しかし、残念であるがこの素晴しい早打ちも時間を経るに従って、賛沢であるが飽きて来るのである。筆者ばかりでなく、周囲の客からも欠伸の声が聞こえて来る。
 色々な種類の花火を上げてはいるが、発数が多いため、同一種の花火が上がる事が多くなるし、3ヵ所から常時上がっているためマンネリ化して来るのである。
 常時3ヵ所からの重ね玉でなく、芯菊等の高品質な花火を1発ずつ2ヵ所から上げる等、めりはりのある打ち上げを工夫したらどうだろう。
 当大会は、丸玉屋小勝煙火店が打ち上げているが、同店が担当している大会では、必ず早打ちの打ち上げを中止してから、スターマインに点火している。このため、早打ちの花火とスターマインが重ならないので、それぞれの花火がより良く見せようという演出に拍手したい。早打ち玉が開花する一方で、それに関係なくスターマインを上げる大会が多いだけに、丸玉屋小勝煙火店の姿勢を評価したい。

(5)開催日

 平成6年8月5日(金)、7年8月4日(金)、8年8月8日(木)、10年8月6日(木)、11年7月21日(水)、12年8月30日(水)、過去7年の開催日である。そして、因に本年は8月22日(水)となっている。平成12年は沖縄サミットの警備の関係で止むを得ないとしても、これ程大規模な大会で、開催日が大きく変動し、定まっていないのは珍しい。どうしてこのように度々変更するのか、主催者に聞いた事はないので理由はわからないが、花火ファンにとって一年中で一番忙しい期日である、7月下旬から8月の土曜でない、平日に開催しており、毎年当大会を見学出来るのはありがたい事である。

3.まとめ

 現在の調布市花火大会の多摩川会場付近で、昭和29年から昭和42年まで開催されていたのが、全日本輸出振興花火競技大会である。昭和37年以降の競技種目はスターマイン、10号1発、5号7発となっていた。スターマインは、土浦の競技大会に比べて、発数は少なかったが、全体的に一般の花火大会では見学出来ない立派な花火が出品されていた素晴しい大会であった。
 15年間の空白の後、昭和57年より、調布市花火大会として競技大会でなく、一般の花火大会として復活した。当初は小規模であったが、年々規模が大きくなり、平成元年より現在と同じ配置となり、平成3年からは当大会名物の10号100連発も開始され、現在までほぼ同じ内容で続いている。平成6年で打ち上げ発数11,111発(東京都内の花火大会の発表発数は正確である!!)で、その後少し減じたとは言え、大規模な大会となっている。本年は20回記念大会という事で、12,000発を予定しており、近年にない盛大な大会が期待されている。
10号100違発、15号入り超特大スターマイン、ワイドスターマイン等と見所も多い首都圏屈指の規模で、花火ファン必見の大会である。10号100連発、ワイドスターマインと、花火筒の配置、そして電気点火の配線も非常な苦労であろう。
 打ち上げを担当している、丸玉屋小勝煙火店の尽力に感謝申し上げたい。最後に、主催の実行委員会と調布市観光協会の担当者と花火を協賛している、各社の皆様にも、厚くお礼を申し上げると共に、これからもこのような素晴しい花火大会が継続するよう切に熱望したい。
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特別募集企画 20世紀の後半花火ベスト5-第3回

21世紀を迎えるにあたり、20世紀後半、ここ50年間の傑作ベスト5を各氏に選んでいただいた。自分で見た花火を主として作品でも、作者でも結構、というテーマです。今回は第3回目。
    
 磯谷尚孝 愛知(41才)
花火業者は、花火マニアほど花火を見ていません。自分の見た中で書きます。
●三重芯変化菊(1995年大曲 青木煙火店)
 全国競技大会では、95点級の花火は時々見ます。しかし、この花火はそれらと比べ、群を抜いて98点の花火でした。この3点の差がいかに大きいか、思い知らされました。
●創造花火(大曲 北日本花火興業)
 観客を花火にどのように引き込むか、今までと違うアプローチをされたと思います。そして、そのアプローチが正しいことを、証明されました。まさに、製作者の感性を感じます。
    
 菅野忠夫 福島(67才)
●割物、変芯、八重芯、椰子(長野えびす講 青木多門氏)
 芯物としては最高の技術で満点である。
●スターマイン(長野えびす講 青木昭夫氏)
 本当にスターマインの玉の組合せは上手である。
●割物、変芯、八重芯(各地競技大会 田村藤茂氏)
 いつも安定した玉である。
●スターマイン(土浦大会 田畑博顕氏)
 当時のスターマインが現在になってもすばらしいものであったと記憶している。
●割物、三重芯、四重芯(各地競技会 小幡清英氏)
 割物で配色がよく、むずかしい芯がよく出る。
●干輪小割松島(各地競技会 小泉清吉氏)
 複雑な千輪の中からきれいに松葉が出る。
    
 後藤芳次 秋田(49才)
●紅屋青木煙火店
 
花火全般の完成度の高さと安定性。
●北日本花火興業
 花火の業界に新風を入れた創造花火各種。
●磯谷煙火店
 万華鏡・雪の結晶の創造性。
●菊屋小幡花火店
 四重芯への挑戦と完成。
●大曲の花火大会堤供シリーズ
 テーマと演出が各地の花火大会をリードした。
●片貝の四尺玉
 なんといっても世界一
   
 春野 霞 長野(52才)
20世紀後半にあって、前半にないもの。第二次大戦の戦後にあって、戦前にないものを考えてみた。
●笛花火
 後昭和24年に始まった、東京隅田川の全国コンクールで細谷火工が発表したときいている。
●ダリア
 これも綱谷火工の出品。いずれも当時工場長であった清水博士の創始ときく。
●椰子
 昭和37年頃から使用されだしたチタン合金を使って青木煙火が発表した太弁物。
●錦冠
 同じくチタン合金が加わって錦冠も登場した。
●キラキラ
 マグナリュウムを活用した断続星。茨城の昭和火工が開発したときいている(註)。
 なお型物、顕露物など、創造花火をにぎやかすものの多くは先人が試みたものの温故知新に属している。あえて取上げると新しい配合の「万華鏡」、明るい配合の「光輝星」をくわえるべきか。
(註):昭和火工土浦工場の鶴見七郎氏の作品であった。
   
 川上信定 東京(54才)
20世紀後半にあって、前半にないもの。第二次大戦の戦後にあって、戦前にないものを考えてみた。
●昇曲導付三重芯変化菊(大曲 山内煙火)
 割物の極致。配色の絶妙さと盆の大きさ。
●パステルカラーのプルー、イエロー(各地イケブン)
 従来にない色を開発。幻想味あり。
●芯入り三尺玉(小千谷 阿部煙火)
 年は忘れました。三尺の一つの到達点と思う。
●三重芯菊(各地 青木煙火)
 芯の大きさ、鮮やかさ、スカッとした消え口、どれも絶品。
●サウンド・オプ・ミュージック(大曲)
 構成の妙。火と音の巧みな連動。
    
 武藤輝彦(80才)
●八重芯菊
 日本の花火を最高に華麗で調和の有る芸術に高めた青木儀作氏。紅屋三代の作品は完壁である。
月影の柳
 昼の煙を、夜照明で見せる=細谷政夫氏の構想は秀逸。限りなく幽玄である。
●ぶどう煙
 紅と黄と緑の煙色が融和すると紫になる。北島義一氏の発想は卓越。花火が可能にした人為の美であった。
●音曲花火
 「昇音曲変芯なでしこ」長野の山口吉三郎氏が作ったピィーパンパンパン、ドンバリバリという快音。あの威勢のよいリズムは今も耳に残る。花火に音のあることを100%生かしたものだった。
●万華鏡
 青木多門氏の創作した「未来花」「ポインセチア」は新鮮だったが、それを新しい配合で新しい造型に仕上げた愛知の磯谷尚孝氏の新知識は貴重である。
附)四段返し
落下傘物が禁止されて、昔のポカの細やかな細工物に接することはなくなった。戦争直後の両国のコンクールで、岡山の小田巧氏が出品した釣物花火は不思議な作品だった。1つの吊傘から2つの傘。その傘から更に2つの傘。4つの傘からまた2つずつ8つ傘になって色火が吊られる。5号玉の中からまるで手品のように変化する。中国地方(鳥取?)の花火師の秘伝ときいたが、今だに?が残る。もう一度見たいものの一つである。

NEWS TOPICS

「公から私へ」のもたらすもの

 最近中国では、花火工場の事故が多発している。湖南瀏陽北嶺の幹部が移転独立した工場の事故の後遺症も治らないうちに、三泰の広東省清遠工場で、4月18日死者三人という大きな事故が発生した。長期にわたり、生産再開を許されなかった広東省にあるこの工場では、再開許可後の猛烈な増産態勢に、安全管理が伴わず、事故発生場所の乾燥室も、無理な作業が行われていたとみられている。
 江西では、全中国をゆるがすほどの小学校の花火事故が伝えられ、中国側は、そのメンツもあって花火の事故だということを否定したり、外部の者が花火材料を持って来校した際、偶発した事故だとかいいつくろっているが、本当のところは、やはり花火の作業をさせていたのである。経済発展が急激である一方、地方政府の予算は、経済分野に集中されがちで、教育予算など、その効果に時間がかかり、少し減らしても影響の分かりにくい分野への予算は削られやすい。自衛のため、学校も、校務水準維持のためアルバイトをするしかない、という状況なのだ。
 江西省南部の長山工場でも、死者三人の事故が発生し、日本の顧客は、今年の需要計画に大きな支障をきたしている。長山工場は、中国の煙火工場の中では、日本からの技術指導がないにもかかわらず、玉も箱物も、水準が高い。湖江の日本との合弁工場も閉鎖された。やはり、小事故の統発、近隣工場の事故などで、地方政府に見放されたからである。日本への供給源として、これも影響が大きい。事故の原因はそれぞれ異なるかもしれないが、基本的には、経営者が、公(大)から私(小)へかぎりなく変わりつつあり、短期的に利益を挙げる投機性が強まり、安全管理は、二の次、三の次にならざるをえない状況にある。広東では地方政府にはもう花火産業への愛情がない。現在の主産地湖南でも、事故が今後多発すれば、やっかいものの扱いの産業にならない保証はないだろう。(M.A生)
研究-a study 

2尺、3尺に挑峨した西沢長蔵氏(長野) 

 毎年秋11月23日に開催されている長野のえびす講花火は、地元紅屋青木煙火と信州煙火工業(藤原煙火)が鎬を削る大会としてその充実した内容は高く評価されている。その白眉として2尺玉の存在がある。前21号でそれに使われた筒のことを記述した。今回は初めて2尺玉を作った西沢長蔵氏についていくつかのエピソードを西沢氏の生誕地西長野の瓜割煙火保存会会長山口立雄氏から戴いた資料により紹介したい。
 現在は新諏訪町といわれる西長野には天保7年(1836)から花火奉納が行われている瓜割の諏訪神社があり、花火製造の風習があった。明治11年9月3日(1878)に西沢善吉氏の長男として長蔵氏は生まれ、若衆になる頃には、花火製造に熱中するようになった。そのため土地の素封家であった西沢家は長蔵氏を廃嫡して次男菩秀氏に相続させる処置をはかったという。朝湯、朝酒と同列に花火は身上をつぶすという評価をされていた時代であった訳である。
 西沢氏が2尺玉3玉をえびす講花火ではじめて打ったのは大正5年(1916)39才の意気盛んな頃。この年大会の主催が鶴賀新地の遊廓の組合から長野商工懇話会に移り、その新企画の目玉として登場したもの。昼一玉夜二玉の玉名は
  
「紅頭白菊に小割相生鳥黄煙竜」(昼)
「菊先小波に小割松島の景」(夜)
「五色変色千輪菊」(夜)
   
であった。打揚火薬は2貫目(約8kg)3寸玉130と4寸玉15程を納めたという。
 三玉は無事に打揚がり拍手喝采となったが、舞台裏では大騒動があった。
 使用した打揚筒ははじめて作った欅造り。註文よりやや細めのものしか入手出来ず、節もあったが期日が切迫していたので急造し、はめたタガも青竹であった。昼の一玉を打ったらタガがバラバラになったので急遼、鍛冶屋を呼び寄せ鉄の鉢巻きほどこし次の一玉を打ち、更に三玉目は筒の内側に鉄板をはって点火も遠隔に変えたという。筒が弱いというので発射火薬もへらしたため打揚高度も予定の800間(1400m)が半減したという。ようやく打ち終わっても筒は廃品。記念に残すことも出来ぬ始末に西沢氏は調達先の材木商を訴えたといわれている。これにこりて主催の責任者鷲沢平六氏は新潟県中頸城郡まで巨木さがしをして、2尺用の筒を新造したという(前21号参照)
 長野のえびす講花火は以来毎年2尺玉打揚を実施して大正10年9月東宮殿下帰国奉迎花火を東京芝浦で遠征打揚げた折は、2尺玉を5玉打揚げている。その時の作者は鈴木元義、市川菩平、青木儀作(以上長野)、小泉仁太郎、本間梅吉(以上新潟)各氏であった。
 西沢長蔵氏その後、3尺玉に挑戦し、昭和2年8月に現信濃町の野尻湖畔で打揚たが地盤が軟弱のために筒がめり込んで打揚がらず失敗した。そしてようやく昭和5年1月長野の高土堤で打揚げに成功し、昭和12年10月上高井郡小布施町で打揚げるまで前後6回3尺玉を咲かせている。その後第二次大戦に入って昭和17年に花火製造は休止となり、終戦後昭和23年(1948)4月4日長蔵氏は死亡。享年71才であった。
 頑固な職人気質の氏はえびす講花火の中核をはたしたばかりでなく、長野の杜煙火の双壁、瓜割煙火(諏訪神社奉納)の相談役として貢献する処大であったという。
 話はこれで終わらないのである。長蔵氏の嗣子博氏が昭和49年に県に対して戦時中没収された3尺筒その他打揚筒の返還を求め、損害賠償の訴訟を起こしたことである。博氏は長蔵氏の手伝いをして花火製造に従事していたが応召中の19年5月に金属回収のために打揚筒54本が供出されてしまった。その3尺筒の一部が戦後22年12月に日通の敷地にあったことを知り返還を決意したという。爾来関係方面を陳借したが戦時中の担当であった金属回収課は廃止された後で折衝先もない状況。また不思議なことに、日通の敷地で見た物は片付けられて影もなくなり、空しい斗争になっていった。しかしこれらの商売道具を失って廃業においこまれた損害は大なるものがあるので悩やんだすえに裁判の手続きを勉強して、事件の25年後に1,000万円の賠償要求の訴訟を起こしたという。しかし判決は却下になったという。
 とかくこの金属回収や、ダイヤモンド供出には不明朗なトラブルが多いが、稀少な存在である煙火の3尺筒もその犠牲者であったことは誠に遺憾なことといえる。くT.M>
COLUMN 

若い花火師の夢 脇野正祐

「安くて良いモノを」。いま、市場では当たり前の言葉として存在し、また、これを目標に製造メーカーは、日々努力をされております。しかし諺にも表と裏がありますように、私は「モノは値段なり」と考えております。当然、花火業界にも、この「安くて良いモノを」という風潮が押し寄せて来ております(特に九州では。)果たして、安くて本当に良いモノが創れるのでしょうか?ある程度の企業努力により若干のコストダウンは可能でしょう。しかし人件費、物価の高い日本では、限界があります。我々日本人の技術力は歴史的に見ても、他のどの国にも劣っておりません。海外から見ても、日本製品は、信頼されており、また安全性も高いでしょう。だが、それなりに価格も高いでしょう。我々もこのジレンマと戦いながら、毎日奮闘しております。私自身、今現在、クライアントとの取引の中で、常に安全性と品質の重要性を言及させて戴いております。私の考えでは、玉数の問題は演出で補えると思っております。業界の方でしたら当然だとは思いでしょうが、安全性の確保が第一であり、その上で、スタッフが丹精込めて創った煙火玉を、いかに演出によって、より良く見せていくかが、勝負だと思っております。今の時代では、人々の需要も様々で、供給サイドとしては、常に多くの情報を収集し、取り込んで行かなければなりません。我社では、いかに人々を満足させ、夢を与え統けて行くかという事を目標としております。その為、花火とは全く無関係のイベント等を企画したり、観たりと、様々な角度から物事を観る力をスタッフー人ひとりが身に付ける必要があると思っております。結果は、すぐには現れませんが何かを始める事が、その目標達成に至る第一歩であると信じております。(01年5月8日(株)脇野煙火商会)
編集後記・FROM EDITORS

★鍵屋から、分家した玉屋の前に「玉屋」があった。今迄私達が聞いていた歴史は“江戸のはなし「鍵屋」の歴史”であった訳で、玉屋の家号がそれ以前に使用されていても不思議はない訳で、今更新発見でもないことなのだろう。花火の世界は記録の少ない世界。僅かに残されたものを頼りにするしかない訳で、鍵屋の歴史でないものを広くさがすことが必要なようである。
 前号の編集後記でインターネット全盛時代に、印刷紙の存在価値に疑念をもつと嘆いたら、早速元参議院議員の矢野俊比古先生から、有難いご激励のハガキを項戴した。「煙火の歴史やら、地方伝統文化としての紹介、業界のトピック、行政の流れ等現象からみた花火観を勉強することが出来、楽しく読ませて項いていることをお知らせしたいと思います」と温かいご感想。心強いご声援である。
 3回つづけた「20世紀花火ベスト5」に案外投稿を得られなかった。各地の花火大会に接することの多い「写真家」からは幾多の方からいただけた。花火師からはなかなか応募がない。自分の花火もみっちり見ることも出来ないのが現実であり、コンクールに参加するのがせいぜい。まさか自分をさしおいて他をほめることの躊躇というのが職人気質にあるのだろうか。
T.M生
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