花火野郎の観覧日記10周年記念スペシャル

番外特別編
炎熱のロード、呉〜下関〜宮島〜そして感動の諏訪へ
  
観覧回想録 before 1996

「花火野郎の観覧日記」がパーソナルな撮影メモの延長線の形でホームページ上でスタートしたのは1996年で、「日本の花火」を公開したとほぼ同時にコンテンツのひとつとなっている。だからそれ以前の日記も観覧記も存在しないわけだ。もちろん撮影と花火行の記録としてのメモは残っているけれど、それも記録し始めたのは1991年から。これは、この花火を求めての旅はこの先永い道のりになるに違いないと覚悟というか確信していたからだった。だから後々の撮影のために覚え書きを残して置きたかった。10周年をひと区切りとして振り返ってみれば、花火大会をより多く経験することはもちろんのこと、それを観覧記にしたためることで花火ウォッチャーとしての私もまた成長してきたのだと思える。自分だけで感動、納得してきたこと、その花火大会とそこで目にした花火の素晴らしい部分を身振りでなく、文章でわかりやすく人に伝えることの難しさ。良い点や問題点をどう見出し解析して、良い点をどう伝えるのか?そんなことを試行錯誤し模索しながら観覧記を掲載してきた。
 今回は特別に細い記憶の糸と日記(いわゆる普通の日記)の記述から辿りながら私が各地の花火大会に出かけ始めた1990年度の観覧記の一部を書いてみようと思う。しかしながらこの当時は私はまだまだ花火に関しては初心者もいいところで、もっぱら行動記録にとどまると思う。情報誌も充分でなく、インターネットが一般に広く普及する遙かに以前のこと。行く先々の各地の花火大会は殆ど全てが未踏の地であり、情報も少なく手探りで途方に暮れていた花火野郎の創世記が垣間見えると思う。

 1990年は、最大の念願の大曲をはじめとして、関東圏とそれまで唯一の関東以外の大会の長岡まつりを越えていよいよ全国の花火大会を観覧しに出かけ始めた年である。年間の観覧結果は右記のようなものだが、日記に全て記載しているわけでもなく抜け落ちがあるかもしれない。
 だから私にとって過去最大のエポックの年なのである。花火野郎の本当の花火行脚はこの年にスタートしたのだといってもいい。この頃は花火情報も充実していなかったし、多くの有名な良い花火大会は知らないままだった。「善光寺えびす講煙火大会(長野えびす講---の前身)」も1992年になるまで知らなかったが、いちおう行脚スタート年度にして手筒花火の初の洗礼まで受けているのである。
 東京ディズニーランドのアトラクション花火は花火写真を撮る、ということ以上にトレーニングや機材のテストなどにも利用していたのでこの年以前にも数多く観覧している(もちろん年パス使用)。この頃のディズニーランドの花火は最も充実していた(2006年の今からは想像もつかないほど)。この年以下の日記に書き記したところ以外で忘れられないのは諏訪神社奉納花火大会、大曲全国花火競技大会、東京港開港50周年記念新春夢花火である。
   
4/28 東京ディズニーランド  
5/6 東京ディズニーランド  
5/15、16  下田黒船祭り海上花火大会(静岡)
7/7 弁天島海開き花火大会(静岡)  
7/20 みなと祭り国際花火大会(神奈川)  
7/27 大江戸花火まつり(現在は消滅)(埼玉、千葉)  
7/28 諏訪神社奉納花火大会(遠州新居の手筒花火)(静岡) 
8/1 PL花火芸術(大阪)
8/2 長岡まつり大花火大会(新潟)  
8/5 戸田橋花火大会(埼玉)  
8/11 東京湾大華火祭(東京)  
8/12 呉海上花火大会(広島)
8/13 関門海峡花火大会(山口、福岡)
8/14 宮島水中花火大会(広島)
8/15 諏訪湖湖上祭花火大会(長野)
8/16 小山花火大会(栃木)
8/18 前橋花火大会(群馬)
8/24 大曲全国花火競技大会(秋田)
9/1 東京ディズニーランド  
9/9、10 片貝まつり(新潟)
9/24 東京ディズニーランド  
10/14 土浦全国花火競技大会(雨天順延本来は10/6)(茨城)
12/14 忘年熱海海上花火大会(静岡)  
12/31 東京港開港50周年記念新春夢花火(この年限り)(東京)
 さてこの頃の撮影機材はどのようなものを使っていたか?というと。
 カメラはマミヤ6451000S(メインカメラ)と4×5(ホースマン45FA)であった。これにスナップ用に35ミリカメラを伴うことも多かった。
 三脚は現在も使用しているハスキーだったが、持っていたのは1本きりで、大判と中判をアームで1本の三脚に載せていたのだった(今から思えば無謀な)。4×5レンズは90ミリ、150ミリ、210ミリというオーソドックスなラインナップ。中判はすでにズームを使っていたが、これは同年(1990)5月に花火用にと入手したもの(購入時既に中古品だったから2006年現在これは私のところにやってきてからで16年目を迎えるメインレンズなのである。ちなみにマミヤ6451000Sもそれより前に中古で購入した物である−現在は引退)。
 全体をアルミバッグに詰めて(現在は使用していない)、カートに乗せているのは今も同じ。この頃は三脚もカートにくくりつけていた。
 4×5もクイックロードはこの頃一般的ではなく、もっぱらホルダーにフィルムを詰め替えて使っていた。ホルダーは10枚の裏表でいち花火大会で撮れるのは20カット限定。ホルダーがかさばるし重いので今より若かったといってもそれ以上携行する気にならなかった。フィルムを詰め替えるためのダークバックも必須だったからけっこう荷物は多かったのである。4×5はやはり撮影枚数が稼げないのとコストがかかること。それと花火を撮るくらいの絞りでは、4×5は絞ったことにならず、アオリのためのイメージサークルもピントも満足に出ないこともあって行き詰まりを感じ、じきに使わなくなる。
 今では割物撮りに普通にやっている花火野郎オリジナルの「追跡法」も4×5でやっていた。無謀なようだがフィールドビューは筐体は大きいがペンタックス67なんかよりレンズ込みで遙かに軽いし、なによりレンズシャッターだからボディへのレリーズショックも殆どない。しかしけっこうブラしたのは撮り方の問題でなく、アームに2台載せていてそれ全体が不安定だったためである。
 さて、各花火大会のことを思い出しながら観覧記を書こうと思う。そしてこの観覧回想記で初めて、宮島水中花火大会のことを書いておきたい。惜しむらくは現在は私がここに記した以上に場所取りなどに関して厳しい観覧事情になっていると思う。
 実はこの連続観覧は8/12の呉海上花火大会でスタートし、8/14の宮島で終わるはずで、諏訪湖は予定外だった。この3夜連続だけでも以下に記すように肉体的にはボロボロに疲労しきっていたのに、予定外だった諏訪湖に向かわせたのは、この間に思ったような撮影上の手応えが得られず「このままじゃ帰れない」という気持ちからだった。撮影の手際も段取りも未熟だったし、花火について、その花火大会について良く知らないということが良い写真に結びつかないのだ、ということを理解していなかった。花火大会に向かわせた動機、花火の写真を撮りたい原動力は純粋に花火の感動であったはずなのに、ただ多くの花火大会に訪れることをこなし、ただ多くの無駄玉といえる写真を残すことばかりを考えていたのだと思う。
 しかし初めて訪れる土地で地元のカメラマンや住民にそこの花火大会のことを尋ねれば、「どこから来たのか?」という問いに、埼玉だと答えれば、一様に激しく驚かれた。ごく一部の狂信的な花火愛好家を除いてはまだ生活圏を飛び出して他の地域の花火大会を観覧する、ということがぜんぜん考えられもしなかった頃なのである。それでも遠方からのよそ者である私に、どの地でも親切に花火や撮影に関する情報を教えてくれたのがありがたかった。そんな会話の中で、必ず誰かから「ここの花火は凄いよ、ここのを観たら余所のは見れないよねまぁ○○○○(観たことはないけれど唯一知っている有名な花火大会名=隅田川とか=地方の方は隅田川がもの凄い花火大会だと信じている)……には一歩譲るかもしれんがなぁ」というような郷土自慢が出てくるのが嬉しかった。郷土の花火大会に対する思い入れや誇りは、私もそうであるように誰もが格別なものがある。そんなことを各地で確認できたことが嬉しかった。
 焦がされながらロケハンに歩き回った遠く過ぎ去りし夏は、とにかく暑かった、ひたすらに暑かった。
1990年8月12日 呉海上花火大会(広島県呉市)
   
 この大会はもちろん現在も開催しているがあまり鮮明な当時の印象が残っていない。ことに花火内容に関してはほとんど記憶にない。自分が撮った写真を見て「こんなのが上がっていたのか」と思うくらいである。それは実際の内容よりも私自身がまだまだ未熟であっただけにすぎないとは思うのだが………。当然ながら花火の名称はおろかこの呉、関門海峡については煙火業者がどこであるとかもまったく知らなかった。
 この4晩の観覧は全て電車による移動である。呉の晩はどこに泊まったか?たぶん距離からいって次の宮島と同じで広島駅前のホテルだったと思う。
 呉はもちろん初めての場所だったので現地ではできるだけ地元のカメラマンと思しき方々に積極的に声をかけて、いろいろと教えていただいた。
 現在の呉海上花火大会の最寄り駅は川原石駅となっているが、当時は呉駅だったように思う。港湾内で台船を使用しての打ち上げであるからどこからでも観覧できるのだが、打ち上げ場所が多少変わっているのかもしれない。
 この時は駅を降りて地元の人に話を聞きながら、呉港の埠頭の一番突端近くまで進んで撮ったと思う。周りにも多くの写真愛好家が居並んでいた。大会本部とかそうしたところに立ち寄った記憶もないし、プログラムもあったかどうか?という今からは考えられないいきあたりばったり。
 呉市は海上自衛隊の海上自衛隊呉地方総監部があるところで、沖合にこの晩だけイルミネーションを灯した海上自衛艦が多数停泊しているのが、花火の下方を彩るビジュアルな特徴といえる。小規模な投下方式の水中花火も行われたが、これに関してはこの90年時点で既に鎌倉の迫力充分なものを経験しており、驚くべき出し物ではなかった。
 この時の写真をこの観覧記に掲載するために全て今の眼でチェックし直してみると、まったくお粗末な撮りに苦笑してしまう。この晩も4×5を使用しているが、やはり重心が高いのと大型のカメラを同架させていることで片方を操作している時の振動がもう一方のカメラに伝わってしまうし、花火からの振動も来るのだろう、写真はブレまくっていた。
 花火撮影そのものは技術的にある程度メドがついたから各地に出かけようと思ったのだし、この90年までにそれなりの永い年数の撮影経験もあった。ところが各地の様々な大会で撮るのはそこが初めての場所であるほどに難しく、実際は撮りながら学ぶことの方が多かった。今にして思えば「よくその程度の技量で」と呆れてしまうのだが、各地の花火を観て撮ってやろうという情熱と、自分の花火写真はきっとこれまでの花火の写った写真とは違うのだという変な自信だけはあったらしい。

1990年8月13日 関門海峡花火大会(山口県下関市、福岡県福岡市)
   
 アジアポート○○という名称が頭に付いて呼ばれるようになったのは(今はそう呼ばれていない)、私が観覧した1990年より後の話で、この頃は単に関門海峡花火大会であった。開催日は8月13日のままで今も変わらない。現在下関側、ならびに門司港側が整備されたものの、近年の同花火大会の写真コンテスト入選作などを観ると、私が観覧した頃と打ち上げ場所については大きな変更は無いように思う。変わったのは担当煙火業者で変わったその後を一度見てみたいと思っている。
 現在の打ち上げ場所から再度、今の私が観覧・撮影場所を考えれば、まだ30代前半で各地の花火を撮り始めたばかりの当時の私にしては的確な撮影場所を選んだものだと思う。
 関門海峡花火大会の特徴は海峡を挟む2箇所の港つまり下関港と門司港の双方で同時に打ち上げるその壮大なスケールにある。写真屋としては当然ながらこの2箇所の打上と関門海峡大橋を入れ込んだ絵を狙う(写真右、左が下関側、右が門司側の打上)。しかしこの3つのポイントが全て網羅できる撮影場所は実はなかなか無い。この3カ所が極めて広大な面積の中に散っているためであり、全てを一望するためにはそれなりの遙かな距離の間合いが必要となる。必然的に花火写真としては花火が遠くなりすぎで、どうしても夜景写真に近くなる場所ではある。私はもちろん現地に行く前から地図などで候補地を考えていたが、実際は初めての場所で行かなければ打上場所もよく判らないのでありロケハンが頼りであった。(対岸の門司側までロケハンするのはさすがに無理だった)。
 しかしこの撮影場所を選びのためのロケハンは今から思えばよくぞそんなことができたと思うほどだ。
 前日が広島であるから、下関にはゆっくりと向かったつもりでも午頃到着する。駅前のホテルもチェックインの時間前で、荷物だけ預けて初めての地でも在るし、地図を片手に下関港一帯を中心にロケハンする事にした。予め地図上でめぼしいと思っていた場所を含めてとにかく歩き回った。炎天で日陰もない港湾一帯は目眩がするほどの暑さだった。関門海峡大橋を遙かに望む埠頭の一角にめぼしい場所を見つけた。日中はほとんど外を歩いている者など居なかったが、埠頭で地元の方らしき中年のご婦人に(おばちゃんだよ)色々と話を聞かせてもらった。確かお掃除をしている方だったと思うがよく覚えていない。埠頭から観る足下の海はとて綺麗なグリーンで、紫外線浴びまくりという天気だった。
 さすがに2〜3時間も歩き回って最後には市街地を見下ろす小高い公園の東屋でへたりこんでしまった。近くで売っていたかき氷をむさぼって生き返る心地だった。それから遅い昼食だか早めの夕食を定食屋で摂ったのだが、ちょいと塩辛いみそ汁が抜群に旨かったのを記憶している。身体から塩分が抜けきってしまっていたのだろう。
 夕方になって機材を運ぶと、ここしかない、と目を付けた場所には既に地元のカメラマン達が大勢スタンバっていた。それで撮影場所の読みは狂っていないなと安堵したものだ。居並ぶカメラマンの中には4×5や富士のGX618など重装備の猛者も居て驚いた。もっともこちらもこの頃は(もうできないけれど)645と4×5を使っていた。右上の写真がその場所からの全景となる。構図としてはもう少し右方向に行きたいところだが、右はすぐに海という埠頭の突き当たりで撮っているので無理。
 さてそれでいよいよ打上が始まるのだが、この時の正直な感想は「下関側の花火がどうしようもないくらい小規模だった」ということ。小規模に別の言葉を使いたいが、それは愛好家諸氏のお察しにまかせたい。門司側では確実に10号を打っていたが、近場の下関はそうは思えなかった。すると遙か遠くの門司側で上がる花火の方が高さが出ていて「遠近感が逆だよ!」と嘆くシーンも何度もあった。同時開催といっても完全にシンクロして上げているわけではないから、左右揃って上がっている場合はいいのだが、どちらかの時はもう一方が打ち始めるまで露光したまま待ったりした。下関側では小規模な水中花火(おそらく台船からの打ち出しか投げ込み)も行われていた。
 撮影場所は2箇所の打上場所の間に関門海峡大橋が横たわる横位置画面でいい案配だった。パノラマサイズのGX618を用意した者はここで撮った経験があるのだと思った。目玉として海峡中央近くの(もちろん航路を外していると思うが)別の台船から尺五寸を打つことだった。錦冠のそれだけが下関側でひとはわ大きく(遠いけれど)感じられた一発だった。確か、探したけれどプログラム紙は無かったと思う。だからぶっつけで、出てくるものに合わせて撮っていたのである。
 花火が終わった後、どうやってホテルに戻ったかとかそういうことはもう覚えていない。次はいよいよメインの宮島であるがさて。


1990年8月14日 宮島水中花火大会(広島県広島市)

 下関から再び広島のホテルに移動し、JR宮島口駅からフェリーで宮島に渡る。その前にやはり時間があるので広島駅近くで名物の「もみじまんじゅう」の店を探し(探さなくても無数にあるが)、嫁さんの実家に送る。もみじまんじゅうを実際に見るのも食べるのも初めてだった。
 ちなみにこの広島行で最も後悔しているのは本場の広島お好み焼きと牡蠣を食べなかったこと。どちらも季節外れではあるが、シーズンど真ん中だったとしても、駅と宿と花火会場を最短距離でしか移動しない私にとってはやはり食べる機会がなかったかもしれない。
 フェリーから写真や観光ガイドなどで何度も目にした朱塗りの鳥居と舞台が、海に浮かぶような佇まいでゆっくりと近づいてくるのを見るのは感慨深かった。それはやはり日本の風景という感じで美しい佇まいだった。
 乗降口からすぐに鳥居と台船を望む張り出し舞台の後方に向かう。近くの土産物屋や記念写真撮影の写真屋さんに情報収集する。土産物屋などには「潮位表」が貼ってあり、土産物屋の店員から話を聞いて初めて潮の干満がこの場所の景観に大事で関わるのだということを知った。
 実際、一日のうちの潮の干満の度合いは大きく、到着時には張り出し舞台の下まで潮が満ちていたかと思えばその夜には鳥居の近くまで波打ち際が後退したのである。もっと潮が引く時期には鳥居の先まで歩いて行ける程なのである。この日の花火開催時間帯には鳥居の根本までは行かなかったがそれくらい沖まで波打ち際が引いてしまったのである。
 到着時は午頃。これは前日の呉の晩に「明日は宮島」と言うと、地元カメラマンから「ああ、それなら出来るだけ早く、午前中にでも着いた方がいい」とアドバイスされていたのである。果たしてそれは大変役に立った。
 記念写真撮影の写真屋に浜に三脚立てて(場所取りして)良いか聞いた。鳥居を背景に集合記念写真を撮る商売だから、「三脚がじゃまだから寝かしといて」とか言われて正直にそうしておいた。早めに着いたおかげで私はまだ鳥居を望むどんな場所も選べるような状況だった(入り江には他の三脚が殆どなし)が、平舞台周囲を何度もロケハンして鳥居が画面ど真ん中に入るのを好まず、平舞台左脇のやや中心を外した位置に場所取りした。花火台船は平舞台から見ると鳥居を中心にほぼシンメトリーに左右後方に2台設置されていた。
 プログラム紙には簡略地図と共に、水中花火投下ラインが描かれていたが、実際はどうかなぁ。投下船の走行ラインが読めないので、もしこれで鳥居の後ろをうまく通らなかったら、思い描いたような鳥居のシルエットの向こうで花火が咲く絵にならないのだが、それはもう初めてだから運とか勘というものにまかせるしかない。
 名物のあなごめしを食べたり(ウマー)、鹿と戯れたり、土産物屋を冷やかしてもいっこうに時間は過ぎないが、平舞台近くの浜には次第にカメラマンが並び初めて居て、私も三脚を立てて加わった。
 たいして時間もかからずフェリーが着く度に三脚の列は伸び、密度を増し、壮大な万里の壁となって連なっていった。平舞台を囲むU字型の入り江の形に添って、浜にも、一段上の遊歩道沿いにも鈴なりの三脚群になっていった。
 開催を待って沖を眺めてたたずんでいた昼下がり、外国人観光客にいきなり肩を叩かれ声をかけられて驚いた。
 明らかに興奮した面もちで鼻息も荒く「いったいこれはどうしたのか?ここで何が始まるんだぁぁ!」。鳥居を取り巻く辺り一帯は、膨大な三脚を前にしたカメラマンが鈴なりに二重三重に埋め尽くしているのだから無理もない。夜の花火の為に待っていることを説明すると「うげっ!信じられねー!」という反応だった。まだまだ陽も高いのだから私も信じられない。彼氏の言葉を借りれば大いに「クレージー!」である。「花火観てく?」というと、「その時間にはもう居ない」と時間が決められたツアーの一員であるらしく大いに残念そうであった。
 しかし本当にクレージー!なのはそれからだった。私は15年以上経った今でもまだこの花火開始前の波打ち際を埋め尽くしたカメラマンの間に漂う異様な雰囲気と緊迫感を忘れることができない。
 もしこの日の開始時間帯の潮位が高く、張り出し舞台後方の歩道から下に降りれないくらいだったらこの異様な雰囲気は生まれなかったのかも知れない。
 夕刻までは居並ぶカメラマン同士、隣り合うカメラマン同士、和やかに歓談していた。周りがざわついたのでふと見るとなんと、我々の目の前の海中にズボンの裾を膝上まで託し上げた男が一人、沖を見つめて仁王立ちしているのだった。おいおいアンタまさか海中に三脚をぶっ立てて、この浜を埋める大勢のカメラマンの前で撮るんじゃないだろうね。するとそこにいた誰もがこの海中の男に同じ懸念の刺すような視線を浴びせる。そりゃそうだ。鳥居が花火によってシルエットで抜けるなら、こんなヤツが自分たちの前方に居ればそいつも三脚ごとシルエットで写ってしまうからだ。
 私は靴と靴下を脱いで海中に入ったかどうか記憶していないのだが、この男に海の中で本意を質したことは覚えている(若いのう)。あんたまさかそこで撮るんじゃないでしょね?そこに居る誰もが聞きたいことを代弁した。「ただ見ているだけだっ」みたいなわけのわからないぶっきらぼうな答えだったが、それで海の中に入るか普通?とともかくそいつは立ち去ってあたりに安堵の空気が流れた。はー疲れた。
 しかしそれも束の間。もっと緊迫した状態になったのは夕刻、潮の引きで次第に海岸線が沖に後退しはじめてからだ。
 私どもはほぼ波打ち際に沿って一列に三脚を並べて待機していた。潮が引いて行くに従って波打ち際と三脚列との間が空く。すると何が気になるかって、その空いた場所に一般観覧客や他のカメラマンが乱入してくることだった。障害物の無い絵を撮るには「最前線、最前列」に居ることが鉄則。
 それで自然に波打ち際を追いかけるように三脚を前にずらして出していくのだが、それもまた、誰かが50センチ前に出せば、「ザザッ」と音を立てて一斉に一歩前に出るのだった(その足並みの揃い方が異様)。
 そこで突然列の中の一人が、「オイッ、三脚を動かすんじゃねぇ、誰に断って前に出しているんだ、元の場所に戻せっ!」「下げろって言ってんだよ!」と吠えたのだった(広島地方は気性が荒いんすか?)。オイオイ、何一人でキレて勝手に仕切ってんだゴルァ(ちなみに、ネットが普及していない当時、ゴルァは存在しない表記である)。その場に居るんだから一緒に三脚をずらせばいいじゃんか。
 こうした花火に向かうときのカメラを並べている者どうしの和気藹々とか和やかとかいう空気は吹っ飛んでしまい。大声と剣幕に従う者も居て辺りには一色即発の異様に緊迫したピリピリした空気が満ちた。こういうアホが居たりで、結局一線に揃っていた三脚ラインに乱れが出て、波打ち際に空きが出来て、そこに一般客が座り込んだ。
 そんなわけで夏場の長時間の待ち時間(現在はもっと長い)と異様な緊迫ムードで花火が始まるまでにいいかげん疲れ果てていた。

鳥居の背後を通過する水中花火を端から端まで撮ったもの。結構花火は種類を使っている。 よく眼にする宮島の水中花火の写真は、タイトル脇のような椰子星のものが代表的だったので、らしくないこの写真は色彩的にも大変気に入っている。写真集「花火讃歌」収録。 大鳥居のライトアップ中の写真。これは打上終了後に撮ったと思う。こんなことをして遊んでいるうちに乗船口は修羅場と化していた。
   
 大鳥居を照らしていた灯りがふっと消えると、海上は対岸の街明かりを残して闇に包まれた。そうなると鳥居が何処に立っていたか?をもう確認することはできない。だから予めその位置については頭にたたき込んで置くことが必要だった。大鳥居のライトアップについてはいわくがあって、その顛末も地元のカメラマンから詳しく聞かせて戴いた。宮島では通常、花火開始とともに鳥居は消灯されるのだが、私が訪れる前年の1989年に花火打ち上げ中もライトアップしたらしい。そういう要望があったのか、主催者のサービスだったのか不明だ。しかし写真愛好家からの猛烈な不評で1年(1回)限りで、取りやめになったということだった。それを聞いた当時は、「そんなものか」と思っていた。しかしその後、花火写真の経験を積み、今更ながら思い出してみると、1989年の宮島を埋め尽くしていたであろう写真愛好家達の怨嗟の声が聞こえるようだ。写真屋ならではの発想と思うが、宮島の鳥居は花火の中でシルエットになってこそいいのだと断定しておこう。
 花火が始まると夢中で撮った。肝心の水中花火そのものは何度も撮影した鎌倉のそれとやり方が同じだったから(この当時、担当煙火店も同じ)とまどうことはなかった。
 宮島はちゃんとプログラム紙があり、アナウンスを伴いながら進行するが、当時公称で2000発(公称で)の花火を8つのパートに分けて2時間半も要して打つのである。1パートあたり15〜20分近く。この間が打ちっぱなしのはずもなく、一度花火をやったら次までの待ち時間が10分以上という開き方だった。
 気分としては「次はまだかよ〜」と嫌になってしまうほどの「間」である。さすがに後半は長い待ち時間と直前までの緊迫した空気に疲れて緊張が続かず(飽きた)、大きな撮影上のミスもやらかした。撮影モードがどうしたミスかマルチ(多重露光)になっていて、気が付くまで巻き上げられているつもりで10カットくらい同じコマに撮り続けたのである。花火撮りの10カットは大変なロスであり、気が付いたときは大いに凹んだ。しかし幸いに巻き上げの感触から異変に気が付いただけのセンスを持ち合わせていた自分を褒めたいとも思う。
 周りで途中で帰るカメラマンも多数居た。しかし後で考えれば飽きたということばかりじゃなく、早めに店仕舞いしたのは終了後の乗船口の大混乱を知っている経験者だったのである。
 長い花火が終わって、消灯されていた大鳥居のライトアップが再点灯した。
 隣近所の写真愛好家と歓談をしてから片づけをし、宮島口行きフェリーの乗船口に向かうとそこは既に阿鼻叫喚の修羅場図絵であった。乗船口は帰り客で埋め尽くされ、大荷物を抱えた私は人いきれに蒸され、群衆の動きに翻弄されるように揉まれ、熱気で目眩がした。いったいいつ本土に復帰できるのかまったく先が読めなかった。
 ようやく広島駅のホテルにたどり着いたのは0時30分で、宮島口から広島方面に乗ったのは最終電車だった。「広島行き最終です」、とのアナウンスに大荷物を抱えて駅の階段を駆け上がった。
 汗だくでホテルに戻り風呂に入って午前1時くらいから機材の手入れ(海沿いだったからね)と4×5のフイルムの詰め替えをしてから寝た。花火の印象など思い浮かびもしないほどクタクタだった。
 本当はこれで帰宅する予定だった。しかし不完全燃焼。花火そのものにまったく満たされていなかったのだ。この晩撮った写真は凡ミスもあったし開催時間の割に枚数がいかなかったけれど(水中花火はひと画面に何発も撮るので撮影枚数は少なくなる)、4×5の方で代表作ともいえる「宮島幻想花」が得られたのだった。645でも同時刻のプログラムでもう少し水中花火を減らして撮ったカットを処女作品集「花火讃歌」に収めることになった。
 もう一度宮島へと願いながらもこの90年以来ご無沙汰となっている。この間に何度か担当煙火業者が代わり今日に至っているのだが、私が行ったときで打上開始までに8時間の待ち時間だったのは、若かった当時でもキツいものがあった。上記したように波打ち際が動く時は三脚の側を離れられず厳しかった。そしてその後、場所取りとそのための待ち時間はさらに長く延びたと聞き、足が遠のいた。今度は島内に宿を取るかしてゆっくりと宮島の夜を楽しみたいと思う。
1990年8月15日 諏訪湖湖上祭花火大会(長野県諏訪市)

 1990年の諏訪湖はつまり今から言えば「バブル経済真っ盛り」の黄金期であるから、物量は凄かった。景気良いということは経済にパワーがあることで90〜91年頃の諏訪湖はまさにパワフル!だった。花火の個々の質から言えば、現在はもっと優れているに違いない、けれどこの当時は溢れるようなパワーが感じられたのだった。現在もパワーのある企業も諏訪湖近辺にあって、多大なスポンサーをしているだろう。しかし当時は社会全体、どの企業にもパワーがあったのだと思う。
 初島は当時も使われていたが、その他の打上場所は現在の繋がった長いストリート台ではなく、湖岸に沿う様に花火を満載した10〜12箇所もの打ち上げ台が点在して設けられていた。
 広島から名古屋へ、それから中央本線で上諏訪へ至る。現着は15時を過ぎていた。湖畔に出て私は直ちに全てを悟ったのである。この90年時点で諏訪湖は既に正面特等席はマス指定席をはじめとする有料観覧席として隔離されており、突然ふらりとやってきた初見参の私にはどうすることもできないということを。
 それで大会関係者(大会本部などに顔を出すのは基本であったので)に、どうしたらいいのかと尋ねて、東側の湖岸つまりカリン並木と呼ばれる一般席エリアに回ったのだった。黄金期といっても16時過ぎなんていうこんな時間に一般席に行ってもこの頃は楽勝で観覧場所が確保できた。私の周りもゆったりとシートとシートの間を充分に離して観覧客が思い思いに座していた。
 現在、この辺りの湖岸は自然風の湖岸に改装されているが、90年の当時、カリン並木あたりはコンクリートで固めた港の岸壁の様な人工の湖岸だった。
 そしてこの湖水を被るような最前列に難なく場所取り出来たのである。湖面まで背丈ほどもあるコンクリート湖岸の下に降りれば立って撮影することもできた。しかし時折モーターボートの類が通過すると波が寄せて思い切り湖水を被っていたのでそういう気になれなかった。暮れなずむ諏訪湖に向かって撮影機材を用意した。たぶんこの時は最前列ということもあって座って撮影したと思う。
 初めて目の当たりにする名物の「Kiss of Fire」で打ち止めとなるまで、全てが初めて観る光景でその晩は夢の様な時間だった。
 後半は特に拍手し続けた両手の平がジンジンしていて、全てが終わると放心していた。この頃の私にとっては出し物の全て花火の全部が凄かった。
 何なんだ、この花火大会は!この諏訪湖で初めて、花火を観て頭の中が真っ白!心が一杯に満足感で満たされて、幸せな気持ちに顔がほころぶ、という感じを味わったのだった。
 諏訪湖のこの時までに、すでに新しい(初観覧の)いくつか名だたる花火大会を観覧してきたわけだけれど、なにか観急ぎ、撮り急いでいたように思う。多くのビギナーがはまると同様に観るよりも撮る(録る)ことに夢中で精一杯だったのだ。花火に感動したからそれを写真にし始めたのに蓋を開けてみれば、できるだけ早く多くの作品を撮らなければ、増やさなければ、と成果を焦っていたのかも知れない。花火を観ること味わうこと、個々の作家の作品に目を向けることよりも、とにかく多くの花火大会の場数を踏み、より多く撮り残したいと考えていたのだろう。
 しかし諏訪湖の強力花火群は私の目を花火そのものに向けさせてくれたのだった。写真なんか撮っている場合じゃない、と思わせた初めての大会だったかもれない。
 諏訪からは、現在は無い「急行アルプス」号で新宿まで帰った。とても寝付かれない夜行であったが数時間前に目の当たりにした花火群が繰り返し眼の奥で咲いては消えた。翌日は一眠りしてから栃木県の小山へ(現在の小山サマーフェスティバル花火大会)出かけている。この頃の住処からは小山までは電車だけで1時間30分かかった。いやはや元気だった、というより諏訪湖でフルパワー充電されたのだろう。

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ブルーの星が雨のように降るワイドスターマイン。
極めて直線的にスピードのある飛遊星を使用したワイドスターマイン。初めて観る星の動きだった。別カットを写真集「花火讃歌」収録。 ワイドスターマイン。 初体験のKiss of Fireに興奮した。それは投下型の水中花火(宮島方式)とは全く違うものだった。写真集「花火讃歌」収録。
    
 この後、念願の大曲も初観覧を果たすのだが、もちろん花火には感動したものの、花火ウォッチャーとしても花火写真家としても完全に未熟者であることを思い知るだけであった。なに、今から思い返せば可愛いものであった。
 当時の数年間はなんとか写真集でも実現できないかと思っていた。もともと出版関連の仕事をしていたので、私にとってはそっちの方が一発限りの花火のような写真展より数が作れてモノが残る写真集の方が憧れ感が強かった。
 世界で初めて、花火だけを花火を観るように撮った写真集「花火讃歌」はその後自費出版という形で実現にこぎ着けた。それでもWebで作品を公開したり、そんなことはまだずっと先の頃だった。私が仕事に使えるパソコン(Mac)一式を最初に手に入れるのは、この1990年から起算しても3年後のことであるし、インターネットが日本で一般に普及し始めるにはさらに2年。私がHP「日本の花火」を立ち上げる1996年まで6年もかかる頃であった。
 現在では花火を見始めて数年という花火ファンが、さらに撮り始めて日が浅いというデジカメで撮った花火の写真や観覧の感想を自前のホームページやブログに自由に安価に公開できる。なんとも素晴らしい時代になったものだと感慨深い。ホームページを立ち上げた頃、回線接続はアナログのダイヤルアップで拡大写真一枚を読み込むのにも相当時間がかかった。大量のサムネールが画面上に揃うまで途方なく待たされたのである。必然的に掲載写真は吟味せざるをえなかった。ADSL、光接続とネット環境も高速の現在、それがゆえに撮り手が自作を選びもせずに、撮れた分だけまるで戦果を誇示するがごとく全て羅列しているのは良いネット環境になったものだと感心してしまう。特に質より量などという大量掲載のページには呆れると共に一目で見る元気を無くしてしまう。
 1990年の自分の写真はどうだったか?今の私から見れば現在のネット上の写真群をどうこう言えるのかよ、と思うくらいほとんどが未熟であった。花火のことも今ほど知らなかった。でもその未熟な写真でありながら写真集を写真展をと野望を抱いていたのだ。この日記を書いている間私は、16年前の自分と向き合うことができ、並んでパソコンのディスプレイを見ていた。そう、きっと私は身の程を知らないくらい若かったのである。「お前……、自信と体力だけは今よりあったのな」、と呆れながら語りかける現在の私が居る。(了)
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