花火野郎の観覧日記2013

観覧日記その5 7/6
2013 弁天島温泉海開き花火大会

  
静岡県・浜松市

「ありがとう。お世話になりました」。
 今回を最期に消えて行く弁天島花火大会に万感の想いで言葉を添えるとしたらこれしかなく、これが相応しい。私は感謝をこめてこの大会の見納めに立ち会うのだ。 
 物量で見せる大会ではないけれど、花火玉とその名称や現象を、私はこの大会で多くを学んできた。だから私にとってこの大会は花火の学校であり教室だった。教科書はこの大会のプログラム誌だ。4号の小玉から全ての玉名が記載されているそれは、当時大変稀少な冊子だった。弁天島花火大会に何度も足を運び、玉名を読み、実際の花火を観て、私はひとつずつ名称と現象を覚えていった。花火愛好家の花火野郎はこの大会に育てられたといっても言い過ぎではない。
 それは静岡の業者の種類に限定されていたが、まだ花火の何もよくわからない私が「こういう花火はこう呼ぶのか、この星はこういう名前か」と、そうして理解していった。それはやがてこのホームページや著書でのオリジナルコンテンツ「玉名の法則」に結実していく。
 玉名もさることながら、ここに3つの業者が参入していたおかげで、同種の玉も業者によって構成も色も打ち方も違う、つまり花火業者による個性の明瞭な違いをひとつの大会で感じ取る事が出来たのもありがたかった。
 その親切なプログラム誌はいまだにそのままで、相変わらず新規の花火の名称をも正しく教えてくれているのだ。時代の流れとはいえこうした大会が消滅してしまうのは惜しい。最期に観覧して感謝したい、そういう気持ちだった。
 弁天島に初めて訪れたのは1990年だから全国向け花火行脚スタートの年。ひとつでも多くの花火大会を観たいと思っていた。そして23年の月日が流れた。
 最後に観覧したのは2003年。以降は天気やら都合がつかなかったりでご無沙汰になった。弁天はこれでも私の住処からは必ず泊まりになってしまう。特に1998以降それ以前より住処が遠くなってからは遠のいた。同時に他の大会への遠征も増えるようになってしだいにこの大会を節約対象にしたのかも知れない。ご無沙汰している間に有料席が拡大したり、いろいろ在ったけれど、人づてに戴くプログラム誌は相変わらず以前のままで、私が多く学んだように、花火の名前を知りたければそれが叶う。そのことはとても嬉しかった。
 現地で最初に目に着いたのは、安芸の宮島、厳島神社のように海中に朱塗りの鳥居が建っていることだった。海の中というより実際は干潟があり、そこに建っていて花火群もまたその近くに並べられている。
 株式会社イケブン、三遠煙火株式会社、田畑煙火。静岡県内の大手三大煙火業社が揃い、三者三様、小玉から二尺玉までのバラエティに富んだ打ち上げは長いこと私を惹きつけた。通い始めたきっかけは当時私が知る中では夏期のいちばん最初の大会だったからで、最盛期の他の大会と日にちも被らず、まず弁天を皮切りに、と予定を組むことができたからだ。当初の撮影機材はブローニー判とともにまだ4×5の大判カメラさえ使っていた頃だ。その後カレンダーを飾るような数々の代表的な作品もここで撮影された。静岡県内で夏期に開催される最初の大会で梅雨も明けない7月の初めながら、比較的雨にやられない大会だった。 
 ふくろい遠州の花火発展の立て役者だった故豊田順介氏と、人の紹介で初めてお会いしたのも1994年のこの大会の終了後だった。当時はすぐ隣の立地で行われているようなものの袋井の花火はまったく知名度が無く、弁天島で袋井の名前を出しても「袋井?花火大会在るの?」というくらいの反応だった。当時の豊田順介氏は袋井の花火をもっと有名にしたいと切に願っていたのだった。その願いは叶い、静岡一を誇る大会に成長した。反面、入れ替わるように弁天島は舞台から降りることになった。もちろん惜しみない拍手と共に。
 行き始めた当時はまだ、JRの岐阜県大垣発、東京行きの夜行が利用できた頃で、車中泊になってしまうがホテルなどに泊まらずに帰ることが出来た。浜松駅を午前1時に出るものだから時間をつぶすのに苦労した。というのも当時の浜松駅とその周辺には本当に花火終了後に辿り着く時間ともなれば飲食店の類はなにひとつ開いてなかった(コンビニなど皆無の時代)。
 最盛期の弁天島駅の終了後はたいへんな混雑で容易に駅に入れなかったため小一時間も海縁で時間を潰していた。夜行列車が廃止になってからは日帰りができなくなり、この大会はもっぱら浜松での宿泊が普通になった。駅周辺にも若い世代向けの飲み屋も増えた。花火後にいったんホテルに機材を置いた後で、こうした新興の居酒屋で若者の喧噪の中でお一人様で一杯飲るのも楽しみだった。
 弁天島花火大会で特筆しておきたいのは、花火終了後JR弁天島駅での、臨時列車運行の充実と駅員の客さばきの見事さ、だろう。観覧場所と駅とが超至近距離のここでは、花火終了後は瞬く間に駅頭は大混雑になる。駅にスムースに客を入れて迅速にかつよどみ無く安全に到着列車に誘導する、このノウハウのなんと洗練されていたことか。その後多くの花火大会に電車で足を運んだが、この駅の駅員ほど素晴らしい対応の所は無かった。
 浴衣の女性が圧倒的に多かった、というのもこの大会の第一印象だ。学生から大人まで、まるでこの大会に来る女性は浴衣着用がデフォであるかのように普通の納涼花火大会より桁違いに多かった。学生と思しき一団も野郎共は普段着なのに女性陣は全員申し合わせたように浴衣、という一行も珍しくなかった。だから待ち時間の間、浴衣からみの夏らしい光景を写真に撮るには題材に事欠かなかった。
  

二尺玉………
  
 東京を発つときは灼け焦げるような夏の陽射しの下だった。ところがウトウトして静岡あたりで目を覚ますと空は暗くなんと雨だった。あまりにも天気予報と違っていて不安感MAXだったが、とりあえず現地まで行ってみようと考える。
 車を持っていた頃もこの大会は電車組だった。だからプログラム誌の表紙をずっと飾っている、対岸の今切口側からは徒歩では4〜5キロメートルとたいへんな距離があるため一度も観たことが無かった。駅側より花火までの間合いがあるけれど、最期に一度だけそちらから観てみたかった。だから本日の観覧場所は打ち上げ場所を挟んだ反対側の海浜公園と決めていた。
 往きはとにかくタクシーで運んでもらう。正午過ぎだというのに対岸にある細長く広い駐車場はほとんど車で埋まっていた。早朝から既着している車組の花火愛好家はもちろん、釣り客の車、そして花火見物の一般客の車ですでに満車状態。
 海縁では太公望が竿を連ね、防波堤状のコンクリート部分には既に何組かの花火見物客が開始を待っていた。遅ればせながら私も今切口に近い堤防の上に三脚を連ねる。すでに相当数の三脚が並んでいた。鳥居を挟んで駅前のホテルやマンション群が望めるその場所は慣れ親しんだプログラム誌の表紙でおなじみの光景だった。
 それからが永い午後だった。幸いなのは焦げるような陽射しが全く無く、海風を浴びてむしろ肌寒いような天気だったことか。上着を着ていないと冷えてしまうような半日。既着の愛好家と歓談したり、車組のバーベキュー大会に顔を出してご相伴にあずかったりとそれでもなかなか過ぎない時間。
 終始遠景が霞みがちの湿度高めの感じだった。見渡しても一面の曇り空でこれで雨にならないのか?と心配だったが、予報では曇りのままということ。
 それにしても最新のプログラム誌を読むと、かつて名前を連ねて単独で大型のスターマインを受け持っていた有力な大手協賛社がいくつも手を引いたことがわかる。楽器屋さん、自動車屋さん、寝具メーカー、葬祭屋さん・・・。3号から10号までバラエティに富んだ打ち上げも、10号は残したものの7号はゼロ。もの悲しい最終回のようだが、それでも最盛期に近いプログラム立てを維持しているのは嬉しかった。2発の20号も健在で、驚いたことにそのうちの1発は宣伝も兼ねているのだろうが、かつては無名のふくろい遠州の花火大会が協賛していることだった。
 永い午後を経て、ようやくたどり着いた花火開始。しかし開幕の10号一発で、全てが終わりだと思い知らされた。
 曲導は途中からかき消えて、開花は低くたれ込めた雲の中にうっすら明るくなる程度。その後は、5号も全く見えず、4号すら半分消える程の悪条件。
 私も長らく観覧しているがこれほどの悪条件はなかなか数えるほどしか経験がない。4号が半分消えるということは雲の底はたった120メートルくらいしかないことになり、恐ろしく低い。静岡には濃霧注意報が出ていたのでもしかすると霧なのかもしれない。それが海面、地上に達しないのは、海側からの風がけっこうあるからで、かろうじて海上100〜130メートルくらいは見通しがあったのかもしれない。
 しかし雲(霧)の底から上は分厚い濃霧の様相。5号が下側の星ひと粒も見えないとは信じられない。見えるのはスターマインのザラ星や3号までの小玉だけ。それも上部は霞んで消えている。メインの駅側なら花火により近いからもう少し見えるのかと思っていたが、その駅側から「順風のそっちなら見えるのか?」と電話があったり。
 開幕10号を見てただちに撤収を始めた愛好家も居たし、その後は櫛の歯が抜けるように去っていく写真愛好家達。私も無駄と思いながら最期の大会の記念にとわずかなカットを撮影したのみ。最初の20号が上がる20時過ぎまで観て中座することにした。その20号も予想通り、海上すれすれに錦冠の引き先の一部がどうにか見えたくらいという残念な打ち上げだった。
 最寄りの新居町駅までは歩こうと思っていたのだけれど、知り合いの愛好家がやはり早めに見切りをつけて車を出すというので、駅まで同乗させていただいた。あっけなく混雑することもなく新居町駅に到着。ここもかつて手筒を見るために乗り降りしたことのある駅だけれど、それもまた23年ぶり。かつてとの違いなどわからないくらいだった。
 最後の一番大がかりのスターマインを私は新居町駅のホームで見ていた。クリアーな夜空で全貌が見えたらなら、幕切れに相応しい怒濤の打上げだったに違いない。
 早めに切り上げた客がどんどんホームに降りて電車に乗り込んでいく。見始めた頃ほどではないけれど、ここではあいかわらず女性の浴衣着用率が高いのだと感嘆した。
 結局私は、往きの静岡駅通過の時に雨だった時から、ずっと翌日まで「信じられない」という顔をしていたのだと思う。それほど天気予報からは想像もつかない気象条件だった。
 弁天様の神通力も弱まったのか、低空に雲がたれ込めるという悪条件は好転せずこの大会の最後に相応しい幕切れだったのかもしれない。夏の陽に焦がされて一気にシーズンインともくろんでいたのに、終日肌寒い一日。現地に着いてからはただの一度も太陽が顔を覗かせる事はなく、低空の雲にやられ、翌日は早朝から雨、とまったく梅雨まっただ中の花火行だった。
 それでも私は感謝してこの地を去る。二度と花火でこの地を訪れることはないだろう。きっと別の機会にここを通過する時に見慣れた鳥居が見えるたびに、この大会を懐かしく思い出すことができるに違いない。
 現花火大会実行委員長様、そして歴代花火大会実行委員長様、長い間お疲れさまでした。最期まで協賛された多くの協賛社様、心よりの労いと感謝を申し上げたい。
INDEXホームページに戻る
日記のトップに戻る