当日までの経緯
●計画
 

 五輪の閉会式に長野の花火を打ち上げる、という話を筆者が煙火業者から最初に耳にしたのは前年の1997年11月のことだった。その際にはまだ「内容はこれから詰める」という漠然とした段階で、地元煙火業者にとっても打ち上げをやるという決定以上には、その内容や煙火業者間の分担など、五里霧中の頃ではなかっただろうか。しかし閉会式前後の新聞報道によれば、同11月にはNAOCはすでに打ち上げ現場地域の住民に対しての(避難の)協力要請を始めているし、閉会式当日に入場者が手にした閉会式プログラムには、打ち上げ花火について印刷されていることからすでにこの11月時点では取り消しのない式次第として実現に向かっていたと思われる。
 もちろん冬季五輪本体は、NAOCをはじめとして着々と準備が進んでいたに違いないが、何分アルペン競技のスタート問題も未決な段階、まだ花火どころか五輪そのものの実現が危ぶまれていた頃である。五輪関係者、煙火業者以外にはまったくはっきりしたことはわからなかったのである。
 1997年12月に入ると、長野県内の主要煙火業者による何度かの打ち合わせにより、打ち上げ内容が大筋で確定したようである。もちろん細部まで練られたわけではない。それでも各煙火業者への花火玉製作の分担が行われ、それぞれいっせいに製作に入った。冬の長野である。工場によっては雪になれば天日にたよる乾燥作業、とりわけ日数を要する星の製造に支障をきたす。ただちに製作にとりかからなければならず、製造しながらさらに演出を細かく具体化していく、という状況であった。
 手持ちの玉をそのまま使う分もあるが、在庫を出してしまえば新年度分の花火玉が不足することになるので、業者によっては新規製造分もかなりあったようである。
 今回は打ち上げ内容、つまりどういう玉の構成でどんな演出で打ち上げるか?といった部分については、煙火業者サイドにまかされた格好である。これは夏の納涼花火大会にもよくある運営で、予算はこれぐらいあとはおまかせ、といったパターンだ。
 NAOCから煙火業者への要請は、何時から正確に何分間で、といったトータルな打ち上げ時間についてのみであった。 

●準備とリハーサル
 

 明けて1998年1月になるとだいぶ具体化していたらしく、この間に打ち上げ内容の確立とそのプログラムに合わせた花火玉の調達、製造などの準備はほぼ整っているということだった。
 地元の煙火業者にとっても、南長野運動公園をとりまく場所での打ち上げは初めてであった。場数を踏んだ花火業者にとっても、スタンドやアリーナからどの程度の高さに花火が見えるのか?などについては経験による予測にたよらざるを得ない。
 現場を下見し、会場をとりまいて5箇所からの打ち上げをすること、貴賓席(天皇陛下御席)正面、つまり聖火台裏は10号を中心としたメインの打ち上げ地点にすること、などが決められていった。
 そこで、では肝心の花火の構成内容はどういうものか?いうことになると、俄然沈黙となるのである。
 1月末には長野県内主要煙火業者に、電気点火を担当する東京の点火業者も交えて初めて本番に備えての打ち合わせが行われた。この席でも花火の打ち上げ内容が県外に漏れる事はなかったのである。どうやら主催者であるNAOC(長野五輪組織委員会)が口外しないように、担当煙火業者に対して厳重な指導している(推定)、という話が伝わるままであった。
 冬季五輪が開幕した。競技内容と結果についてはここであらためて書くまでもない。そして競技開催中は花火内容どころか打ち上げの事実さえも、まったくみじんも報道されないまま、秘密のベールをまとって閉会式に向かうのである。
 打ち上げの最終リハーサルは閉会式前日の21日土曜日、寒風吹く打ち上げ予定現場で行われた。その前日の金曜は雨で、それまで現場周辺にも降り積もった雪がほとんど解けてしまったということである。すると現場によってはぬかるんだ田圃の土の上に筒を並べるような場所が出てくるので打ち上げ時の衝撃で傾ぐのではないか?などが問題となり、古畳をあてがって補強する設営がとられた。
 リハーサルは本番と全く同様に点火の配線をして、実際に打ち上げ順にスイッチオンしたとき点火玉が確実に飛ぶか(着火するか)を全ての回線で行った。これにより確実に目的の配線がされているかのチェックとなる。この後は点火玉を新品に交換し、翌日の花火玉の実装作業を残すのみである。
 各人がいつも以上に慎重で綿密な作業をしていたことだろう。五輪という特別な舞台ということを抜きにしても、実際のところ長野県内の全業者が一堂に会して一つの打ち上げを行う、という機会は初めてのことで、通常の夏の花火大会では殆ど考えられないことだからだ。長野県内での花火大会は、夏は当然ながら秋の祭りまで含めてもひとつひとつがそれほどの規模ではない。諏訪湖の花火大会は例外に大規模だがそれが唯一無二である。この諏訪湖でさえ、県外業者を含めても10業者程度の参加なのである。他の花火大会なら普通なら一業者、多くても数業者が協力するくらいで花火大会は行われる。それだけに今回の打ち上げは、充分な予算があてられたか?を別にしてもやはり長野の煙火業者にとっては一大プロジェクトといわざるを得ない。通常は同じ現場で作業をしていない業者同志も、今回はひとつの目的において呼吸を合わせなければならないのである。 
 
●打ち上げ当日
  

 あいかわらず一切がNAOCとIOCによる厚い報道規制と箝口令のベールに包まれたまま、当日を迎えた。NAOCに問い合わせた写真愛好家の話では「へーっ花火なんてやるんですかぁ、知りませんねぇ」といった超見事なミエミエのオトボケに遭い、内容の切れっ端も伝わってこないのであった。「驚き」は本番にそれが起きるまで隠しておく、というIOCの方針は最後まで貫かれた。
 この日地元新聞等では、閉会式の式次第が報道されていた。それでも記事やTV番組覧に「花火」とあるのは、スタジアム内で式典として行われる清内路村の伝統花火のことで、打ち上げ物の内容に関しては一行もみられなかった。ただNHKの早朝のニュースでは「5000発の花火が打ち上げられる」と報じていたし、一部の全国紙では打ち上げに伴う近隣住民の避難の記事が掲載され、これが打ち上げの事実を物語ることになった。NAOCは完全なるノーコメントを通したわけだが、閉会式が始まる頃になると「花火が凄いんだって!」とどこから聞きつけたのか、スタジアム周辺には花火目当ての客も結構集まっていたのである。
   
午後2時前、ゲート前で入場を待つ人々。聖火台のあるスタンドは、大規模な仮設スタンドだ。
閉会式会場の周りはぐるりとところによっては二重にフェンスで囲ってあり、近づいて記念写真を撮ることも困難。

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